まもなく明仁天皇が退位の時をむかえる。そのことを知って――いやそれよりも、昨2016年8月、テレビ放送でいわゆる「おことば」にせっして、といったほうがいいかな。
――ああ、やっぱりこの方はまぎれもない私の同時代人なのだな。
あらためてそう感じた。そして反射的に思い浮かべたのが、エリザベス・グレイ・ヴァイニングの『旅の子アダム』という本のことだった。
ではなにゆえの『旅の子アダム』だったのか。
ひとつにはむろん著者のヴァイニング夫人が、学習院中等科にかよっていた明仁皇太子の家庭教師だったからです。そのえにしで皇太子はこの本を日本語版で読んだ。そしてもうひとつ、じつはこれとおなじころ、すなわち敗戦から3年たった1948年のクリスマスに、皇太子よりも5歳下の、まだ国民学校4年生だった私も、おなじ本をもらって読んでいたのですよ。
この年の秋、私はあやうく肋膜炎(いまでいう結核性胸膜炎)になりかけ、しばらく自宅で寝ていた。なにしろ戦後まもないころだったから、ラジオできく落語をのぞくと、本を読むぐらいしかたのしみがない。なのに、かんじんの読む本がない。かずすくない手持ちの本はもう読みあきたし、かといって、病気が病気なので、友だちから気軽に借りてくることもできない。そんな窮状をあわれんでサンタクロースが贈ってくれたのだろう。
原著は1942年にヴァイキング・プレス社から刊行され、その年のすぐれた児童文学にあたえられるニューベリー賞を受けた。私が読んだのはその6年後、つまりこの本をもらったのとおなじ1948年に星野あい訳で刊行されたばかりの日本語版で、当時の標準からすれば、なかなかの豪華本だったという記憶がうっすらとある。
1948年といえば、まだ40代だった石井桃子を中心に「岩波少年文庫」という画期的な試みがはじまる2年まえ。とうぜんこの国には、ミルンの『クマのプーさん』も、リンドグレーンの『長くつ下のピッピ』も、フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』も存在していなかった。――そうか、だとするとあの本こそが、それまで江戸川乱歩の「怪人二十面相」シリーズに熱中していた私が手にした、はじめての海外の新しい児童文学だったのかもしれないぞ。
主人公のアダムは私とおなじ年ごろの少年吟遊詩人で、やはり吟遊詩人の父親とともに、赤毛のスパニエル犬をつれて、13世紀末のイングランド各地を旅してまわっている。旅の途中、竪琴を肩にかけた少年が夕暮れの渡し場にひとり立ちつくしている場面があり、そのさびしげな光景が、なぜか大人になったのちも私の頭にこびりついていた。
――とはいうものの、そんな場面がほんとうにあったのかどうか。もらった本はとうになくしてしまったし、たしかめようがないのですよ。
もう30年以上まえになるが、そんな話を京都の飲み屋でいまは亡き今江祥智さんとしていたら、かれをつうじて、『飛ぶ教室』という児童文学誌の編集者がコピーを送ってくださった。
思いがけない厚情に感謝しつつ、すぐにもらったコピーでしらべたら、問題の場面は、物語の半分ほどのところにたしかにあった。ただし私は、それをさびしい抒情的な光景として記憶していたのに、実際は大ちがい。抒情的どころか、アダムはきわめて行動的な少年で、愛犬をうばって逃げる盗っ人を追って、とうとうと流れる大河に、ためらうことなく飛び込んでしまうのですから。
しかし奮闘むなしく愛犬も盗っ人もあっけなく見失い、おまけに父親ともはぐれてしまう。それでもアダムはめげることなく、ひとりで困難な旅をつづけ、親切な人やおっかない人や、さまざまな旅の仲間との出会いをかさねて、ようやく愛犬や父親との再会をはたす。そしてその間にアダムは、おさないが、つよい誇りと自立心をもった人間(「ぼくも父さんのような立派な吟遊詩人になるんだ」)として、しっかり成長してゆく――。
さきにのべたとおり、この児童小説を私は病床で読んだ。そしてヴァイニング夫人の『皇太子の窓』という回想録によると、明仁皇太子もおなじころ、やはり病床で、はじめてこの作品にせっしたらしい。私は肋膜炎だったが、皇太子は盲腸炎。そのため1948年11月に、皇居内の仮病舎で緊急の手術をうけた。
殿下の御回復は大変順調で、明るい元気な御様子だった。私がお見舞いにうかがったとき、侍従の清水氏が殿下に本を読んでさしあげていたが、その本が私の『旅の子アダム』の日本語訳だったのに私は興味を覚えた。(『皇太子の窓』)
じつはそれとおなじころ、皇太子の13歳の誕生パーティで、侍従のひとりが「道は吟遊詩人の家だ」という作中の一節を朗読するというようなこともあったようなのだが、ざんねんながら確認できなかった。
ただし『皇太子の窓』のべつの箇所で、ヴァイニング夫人は、ある侍従(のちに中井正一副館長時代の国立国会図書館のスタッフとなる角倉志朗)に『旅の子アダム』(原書でしょう)を贈ったら、あとでかれが「名文だと思います」と、「中世紀における街道とその意義について述べた個所を〔じぶんのノートに〕写しとっておいたのを読ん」でくれた、としるしている。
もしもこの記述がただしいとすれば、あの誕生パーティ(病室ではなく)で「道は吟遊詩人の家だ」という朗読をしたのも、この人物だった可能性が大きい。その一節を、なくした星野訳のかわりに、近所の図書館でみつけた立松和平訳から引いておきます。ある旅の日、平野や丘を越えて、ずっとさきの、それこそ「全世界」にまでつづいているかに見える「立派な道」をまえに、父親が息子にこう語りかける――。
道というのは神聖なものだね。道を修繕して後の時代に残しておくことは、貧しい人に施しをしたり、病気の人の看護をすることと同じことだよ。道は太陽にも、風にも、雨にも、みな同じようにさらされている。道は人間を一カ所に集めたり、遠くに運んだりする。国中の各地をつなぐ。それからこれが重要なんだが、道は吟遊詩人の家だ。たまにはお城を家にすることがあっても、本当の家は道なんだよ。
侍従たちの朗読に耳を傾けるだけでなく、皇太子もその後、じぶんで日本語訳の『旅の子アダム』を読んだらしい。
では、なぜヴァイニング夫人は、皇太子がこの小説を読むことに「興味を覚えた」のだろう。
その理由を夫人はどこにも書いていない。でも、おおよその推察はつく。思いもかけず旧敵国の皇太子の家庭教師となった人間として、彼女は、周囲の環境がどうあれ、じぶんの生徒が新しい日本で「つよい自立心をもった人間」にそだってくれることを、本気で願っていたのだろう。そのことのために、かつて私が書いた「旅の子」アダムの物語がいくばくかの役に立ってくれればうれしい。あからさまに口にはせずとも、そうひそかに考えていたのだと思います。
*
明仁天皇だけでなく、私より4歳上の美智子皇后にも、いつしか、おなじ時代に本とのつきあいをはじめた人間としての親愛感をいだくようになった――。
天皇とお目にかかったことはないが、皇后とはいちどだけ、私たちの世代(最初の戦後世代)の読書について、みじかい会話をかわしたことがあります。
2003年、東京目白の「明日館」を中心に、羽仁もと子が1903年に創業した婦人之友社の百周年を記念する大きな催しがあり、私も講演者としてそこに招かれた。その数年まえに、月刊誌『婦人之友』と「家計簿」をふたつの軸とする同社の「友の会」活動をとりあげて、「雑誌の読者が『同志』だった時代」という文章を書いた。おそらくそのせいで呼ばれることになったのだろう。
その会場に美智子皇后がおいでになり、講演のあと、すこしお話ししましょうかと別室に案内された。
くわしいことはもうおぼえていませんが、たしか皇后が最初に、戦争が終わって疎開先からもどってきたある日、3歳上の兄とその友人たちが本の話をするのをそばできいていた――その場の明るく自由な空気をいまも忘れずにいます、という意味のことを話され、そこから本や読書の話になったんじゃなかったかな。
あれこれ話すうちに、スキラ社というスイスの美術出版社が刊行する画集の、「スキラ判」として知られる特殊な判型のことが話題にのぼった。
B5判(週刊誌大)をタテに3センチほど短くした正方形にちかい判型。それがスキラ判です。当時のスイスの高度な印刷や製本技術とあいまって、その洗練された美しさが、1960年代から70年代にかけて、デザイナーや編集者のあいだで人気をあつめていた。
同社から刊行された「創造の小径」シリーズもおなじ系統の判型(21.5センチ×16.5センチ)で、その日本語版が18点、70年代に新潮社から刊行されている。ロラン・バルト『表徴の帝国』、レヴィ=ストロース『仮面の道』、クレジオ『悪魔祓い』、オクタビオ・パス『大いなる文法学者の猿』などなど――。
その印象がたいへんつよかったので、1997年に私たちが創刊した『季刊・本とコンピュータ』という雑誌で、この「創造の小径」シリーズの判型をそのまま踏襲させてもらった。編集者でも装丁家でもないふつうの読者は、「スキラ判」ときいても、たいていはなんのことかわからないですよ。ところが美智子皇后はごくあたりまえのこととしてスキラ判の魅力について語った。あれ、と思いましたね。本とのつきあいの深さが並みではないぞと感じたのです。
あとで、その『季刊・本とコンピュータ』のバックナンバーをお送りしたら、お返しに、ご自身の『橋をかける 子供時代の読書の思い出』という本を贈ってくださった。
1998年9月、インドのニューデリーで開催された「国際児童図書評議会」の世界大会で、美智子皇后が「子供の本を通しての平和」という大会テーマにもとづく基調講演をなさった。その記録を英語と日本語で収録した本で、おなじ年にすえもりブックスから刊行された。私が贈ってもらったのは4年後に文藝春秋社からでたその「定本」版で、のちに文春文庫にもおさめられたから、お読みになった人もおおいにちがいない。
学齢まえにまわりの人が読んでくれた新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」という童話にはじまり、たくさんの本がでてくる。なかで中心におかれているのが田舎の疎開生活の中での読書です。
(正田)美智子さんが小学校にはいった1941年12月、真珠湾攻撃によって太平洋戦争がはじまった。そのため父と兄を東京にのこし、母につれられて妹と弟とともに東日本の各地を移り住み、さいごの疎開先となった軽井沢で終戦をむかえる。「教科書以外にほとんど読む本のなかったこの時代に、たまに父が東京から持ってきてくれる本は、どんなに嬉しかったか。冊数が少ないので、惜しみ惜しみ読みました」
それらの本のなかで、とりわけ熱心に読んだのが、兄の本棚にあった「日本少国民文庫」で、そのうちの何冊かを父に頼んで疎開先に持ってきてもらった。
「日本少国民文庫」というのは、『路傍の石』などで知られる作家・山本有三の企画で、戦後、岩波書店で雑誌『世界』を創刊する吉野源三郎を実質的な編集長として、石井桃子、吉田甲子太郎(児童文学者)、大木直太郎(劇作家)を編集同人に、1935年に全16巻のシリーズとして新潮社から発刊された。
1935年といえば、すでに満州事変がはじまり、3年まえの五・一五事件、翌年の二・二六事件と、いよいよ日本の社会に息苦しい空気がただよいはじめた時期です。そんななかで、「子供達のために、広く世界の文学を読ませたいと願った編集者があったことは、当時これらの本を手にすることの出来た日本の子供達にとり、幸いなことでした」と美智子皇后は語っている。
当時私はまだ幼く、こうした編集者の願いを、どれだけ十分に受けとめていたかは分かりません。しかし、少なくとも、国が戦っていたあの暗い日々のさ中に、これらの本は国境による区別なく、人々の生きる姿そのものを私にかいま見させ、自分とは異なる環境下にある人々に対する想像を引き起こしてくれました。
この叢書には山本有三『心に太陽を持て』、里見弴『文章の話』、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』など、多様なテーマの本がそろっていた。ただし皇后は、その中の『世界名作選』の(一)と(二)についてだけ熱心に語っている。なぜか。この2冊に『日本名作選』を加えた3冊が、父が幼い娘むきにえらんでくれたものだったからです。
と同時に、こんど、2003年にでた新潮文庫版で読んではじめてわかったのだが、この『世界名作選』二巻は、このシリーズの編集者や翻訳者(岸田国士、阿部知二、中野好夫、高橋健二ほか)たちが、とくにこころをこめてつくったと思われる、いわば同叢書のかなめともいうべき大切な本だったようなのです。
そこには、キプリング「リッキ・ティキ・タヴィ物語」(イギリス)、ブレイク「笑いの歌」(同)、チャペック「郵便配達の話」(チェコスロヴァキア)、ケストナー「絶望」(ドイツ)、タゴール「花の学校」(インド)、マーク・トウェイン「塀を塗るトム・ソーヤー」(アメリカ)、アナトール・フランス「母の話」(フランス)、ドーデー「スガンさんの山羊』(同)などの、皇后のおことばによれば「国境による区別なく」えらばれた作品が、子どもにもしたしめる、すぐれた翻訳でズラリとならんでいた。
なかのひとつ、アメリカ合衆国の詩人ロバート・フロストの「牧場」という詩からうけた感動について皇后が語っています。
牧場の泉を掃除しに行ってくるよ。
ちょっと落葉をかきのけるだけだ。
(でも水が澄むまで見てるかも知れない)
すぐ帰ってくるんだから―君も来たまへ(以下略)
ずっとのち大学の図書館で原詩にふれ、最終行のリフレーンが「I shan't be gone long. ―You come too」であることを知って、「かつて読んだ阿部知二の日本語訳の見事さ、美しさ」に、はじめて気づいた。おなじころ、この集を編むにあたって、吉野や石井などの編集者たちが、上田敏訳のカルル・ブッセ「山のあなた」をのぞく全作品(長短合わせて32篇)を「新たな訳者に依頼して新訳を得、又、同じ訳者の場合にも、更に良い訳を得るために加筆を求めた」ことなどを知ったらしい。
私がこの本を読んだ頃、日本は既に英語を敵国語とし、その教育を禁止していました。(略)子供の私自身、英米は敵だとはっきりと思っておりました。フロストやブレイクの詩も、もしこうした国の詩人の詩だと意識していたら、何らかの偏見を持って読んでいたかも知れません。
この一節が、さきに引いた「こうした編集者の願いを、どれだけ十分に受けとめていたか」という一節に、まっすぐにつづいてゆく。そのたたみかけるような語りにひきこまれた。なるほど、おさない人間としてあの敗戦を体験した者のうちには、ことばにはならない、こうした屈折した思いがひそんでいたのだな。その点では4歳下の私も例外ではなかったようだぞ、と感じたのです。
*
例外ではなかったというのは、私にもこんな経験があったからです。
正田さんご一家と同様に、私の家族(母と私と弟妹)も、父ひとりを東京にのこして信州の川岸村(現岡谷市)に疎開していた。1945年8月15日の正午ちかく、昭和天皇の「終戦の詔書」のラジオ放送をきくため、私たちが暮らしていた農家の隠居所に、おなじ疎開者の女性が数人あつまってきた。おさない私にあの放送がすぐ理解できたとは思えない。おそらく放送のあと、母親たちが抱き合って泣いているのを見て、やっと「日本が敗けた」とわかったのだろう。
――ぼくは男の子だぞ。なんとかしなければ。
と必死に考え、隠居所のわきに大きな土管が10本ほど積んであることに気づいた。よし、あれだ、と思ったらしい。
「ねえ泣かないでよ。ぼくがあの土管にかくれてカタキを討つからさ」
そう高らかに宣言したことを、あれから70年以上たったいまも忘れずにいます。すくなくともこの段階では、国民学校一年生だった私も、五年生の美智子さんとおなじく「英米は敵だとはっきりと思って」いたのでしょうな。
ただし私の場合、この「英米は敵」意識はあっというまに消え、しばらくたつと、友だちといっしょに「チョコレート!」「ガム、ガム!」とわめきながら、進駐軍のジープのあとを走って追いかけるようになっていた。
そして、あの講演のあとの会話によると、美智子さんもまた疎開からもどると、すぐに兄たちの会話に明るく自由な空気を感じるようなっていたらしい。
しかし明仁皇太子の場合、敗戦をはさんでのこうした旧から新への切り替えは、そうスムーズにはいかなかった。その点では、私はもとより正田美智子さんともちがう。そこであらためて思いだすのが、皇太子が病床で『旅の子アダム』を読んでもらっていることに「私は興味を覚えた」という、さきほどのヴァイニング夫人のことばです。
1946年10月、来日した夫人はすぐに皇太子と英語の個人授業をはじめた。
この授業で、夫人がなにか質問をすると、皇太子はまずちらっと侍従のほうを見る。どんな簡単な質問でも、侍従たちの助けを借りずに答えることはなさらないらしい。授業だけでなく、日常の些細な作業でも皇太子がうごくまえにお付きの人がさっとやってしまう。はじめ夫人は相当にびっくりしたようだ。なんであれ、このような依頼心は早く捨てて、皇太子が「御自分の仕事をまったく独力でなさり、間違いを恐れないという経験をお持ちになる」機会をつくらないと――。
そこでヴァイニング夫人は、学習院中等科での週に一時間のじぶんの授業では、試験的に、生徒のひとりひとりに、アルファベット順にアダムとかビリーとか英語の名を割りふることにした。いつもは「殿下」とか「東宮さま」と呼ばれている皇太子が「一生に一度だけ、敬称も一切つけられず、特別扱いもまるで受けず、まったく他の生徒なみになることも、(略)よい御経験になるだろう」と考えたのです。
とうとう皇太子殿下の番になったので、私は言った――「このクラスではあなたの名前はジミーです」(略)
殿下は即座にお答えになった――「いいえ、私は皇子です」
「そうです。あなたは明仁親王です。(略)それがあなたの本当のお名前です。けれども(略)このクラスではあなたの名前はジミーです」。私はちょっと固唾をのみながら待った。
殿下は愉しそうに微笑された。そこで組全体が晴れやかにほおえんだ。(『皇太子の窓』)
ほかの同年配の少年たちとはことなる大きな責任を負わされていただけではない。新しい環境のなかで、皇太子は身ぢかな人びととの関係もふくめて、それまでの日常の慣習をひとつひとつ変えてゆかねばならなかった。そんな少年が、じぶんとはまるでちがう、たったひとりで「つよい自立心」をもって生きる「旅の子」の物語にせっして、なにを感じたのだろう。ヴァイニング夫人の「興味」はおそらくそこに向けられていたのだと思います。
そして『皇太子の窓』にはもうひとつ印象的な場面があった。
1950年の冬、ヴァイニング夫人の部屋に皇太子とふたりの学友がまねかれて、3年まえに施行された日本国憲法と2年前に採択された世界人権宣言の条項を英語と日本語で読みくらべる、というあつまりをもった。
新憲法には翻訳臭があるという意見があるが、殿下もそうお思いになりますか? と夫人がたずねると、そうは思わないけれど文語体と口語体がまじっているのでへんな気がします、と皇太子は答えた。
――私は文語体で統一したほうがいいと思う。明治憲法は文語体で書かれている。文章が美しかったから国民は尊敬をはらったのです。
ヴァイニング夫人によると、どうやら皇太子はそれまで憲法をちゃんと読んだことがなかったらしい。そのせいもあって、はじめて日本国憲法を英文とならべて読み、すくなからぬ違和感をいだいたのでしょう。
――ふうん、明仁皇太子(現天皇)と日本国憲法とのぬきさしならない関係は、まずはこんなふうにはじまったのであったか。
そこでおのずと思い浮かぶのが、それから66年のち、冒頭でふれた2016年8月8日の天皇の「おことば」――ただしくは「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」のこんな一節です。
天皇が〔日本国憲法にいう〕象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。
このスピーチにせっするまで、私は、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって」と憲法第一条にいう「象徴」の語について、抽象的で観念的、なんだかよくわからんと感じるだけで、まともに考えようとしたことがなかった。私とかぎらず、右も左も、学者も政治家も、だれひとり、このことを具体にそくして本気で考えたことはなかったんじゃないかな。
しかし私たちはそれですむけれども、天皇ご自身はそうはいかない。なにしろ、「人間」天皇が同時に「象徴」であるということの異様さを、日々、じぶんのからだで生きなければならなかったのですから。
――中学生のときに読んだ新憲法への違和感にはじまり、長い長い時間を、その憲法によってみずからに課された「象徴」としての人生について、あの方は、だれの助けもなく、じぶんひとりで考えつづけてこられたのだな。
あの日のテレビ放送で、ゆっくりした口調で語られる天皇の「おことば」をききながら、やっと私はそのことに気づいたのです。
*
とりわけつよく印象にのこったのは、明仁天皇が「象徴」という抽象的な概念を、政治には関与しないという憲法の制限下でじぶんのなしうる「行為」として、観念的・政治的・宗教的にではなく、あくまでもひとりの人間の実践に即して定義しようとされてきたらしいことだった。すなわち、
――よろこびのときもかなしみのときも、「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添う」べくつとめること。そして、そのために「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅」をひたすらつづけること。
それが長い試行錯誤のはてに天皇のたどりついた「象徴」の実践的定義だったのです。この「遠隔の地や島々」には、沖縄はもとより、広く、サイパン、パラオ、ぺリリュー島などの海外激戦地もふくまれると考えていいだろう。
そして、かつて天皇とおなじ本を読んでそだった同年代の人間としては、この定義から、ヴァイニング夫人の『旅の子アダム』を連想せずにいることはむずかしい。
いや、だからといって、
――無数の道が、太陽や風や雨にさらされながら「国中の各地」をつないでいる。その道をたどって、地位や財産や男女の別なくすべての人びととたのしみを分かち合う。「道は吟遊詩人の家だ。たまにはお城を家にすることがあっても、本当の家は道なんだよ」
というあの物語のおしえを天皇がそのままなぞっているなどといいたいのではないですよ。
そこまで強弁することは私にはできない。しかし、かつて天皇がおさない皇太子だったころに読んだ物語の記憶が、そうと意識することなく、いまも天皇のうちに生きているというぐらいのことはいってもいいのではないか。美智子皇后が『橋をかける』のなかで「子供時代の読書」について語ったこんなことばを読むと、なおさらそのように思えてくるのです。
「それ〔子供時代の読書〕はある時には私に根っこを与え、ある時には翼をくれました。この根っこと翼は、私が外に、内に、橋をかけ、自分の世界を少しずつ広げて育っていくときに、大きな助けとなってくれました」
そのむかし「本を読む子ども」のひとりだった天皇のうちでも、たぶんこれとおなじことが生じていたにちがいない。そして、もしそうであるとすれば、さきほど私は「天皇がひとりで考えつづけた」と書いたが、あれはまちがいだったことになる。いや最初のうちはたしかにそうだったのでしょう。でもそれはあくまでも旅の途中まで。「私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅」と天皇が「おことば」でのべているごとく、やがてこの作業に美智子皇后が頼りがいのある親密な「旅の仲間」として加わってこられたのだから。
1959年、皇太子ご成婚――。
その前年に私は大学にはいり、この59年から翌60年にかけて反安保闘争が激化する。いわゆる「60年安保」の時代です。そんななかでの「テニスコートの恋」や「ミッチーブーム」といった世間のさわぎ――なかんずく沿道の群衆に馬車の上から手を振る晴れ晴れと明るい若いプリンス夫妻のテレビ映像を、デモ帰りの私はいくぶん白けた気分で見ていた。
でも80歳を目前にしたいまになってようやくわかった。あの、周囲の反対を押し切ってつらぬかれたときく「皇太子の恋」とは、じつは、このさき「象徴」として生きる道をともに歩む「旅の仲間」をもとめての、若い皇太子の切実な意思の表明でもあったのですね。
それから60年――いま私たちがテレビ画面で日常的に目にしているのは、東北や熊本などの被災地になんども足をはこび、避難所の床に坐って待っていた人びとのまえで、腰をかがめ両膝をついて、かれらとおなじ目の高さでゆっくり会話している、老いたご夫妻のすがたです。
――おそらくこの姿勢こそが天皇夫妻が日本国憲法のもとでつくりあげた「象徴」の究極的なかたちなのだろう。それにしても、えらいなあ。だれにせよ、80歳をこえてこの苦しい姿勢をたもちつづけるのは、けっして楽なことではないのだから。
おふたりよりも若いくせに、早くもよれよれになった私は、ひとごとならず、そう感じさせられてしまうのです。
と、そうのべた上で、美智子皇后の『橋をかける』のおわり近くにしるされた以下の短い一節を引いておきます。
そして最後にもう一つ、本への感謝をこめてつけ加えます。読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。(略)人と人との関係においても。国と国との関係においても。
私たちは「決して単純でない」世界を、それぞれが「決して単純でない」しかたで生きてゆくしかない。読書は、その「単純でない」環境に耐える力を私たちにあたえてくれる。これまでもそうだったし、きっとこれからもそうだろう――。
いま天皇夫妻とおなじように年老いた私は、この皇后のことばに、なんのためらいもなく共感できる。長く「単純でない」時間がたったのです。
―――――――――
エリザベス・グレイ・ヴァイニング『旅の子アダム』立松和平訳、恒文社21、2004
E・G・ヴァイニング『皇太子の窓』小泉一郎訳、文春学藝ライブラリー、2004
津野海太郎「雑誌の読者が「同志」だった時代」岩波書店『知識人・近代日本文化論4』、1999年(のち『読書欲・編集欲』晶文社、2001年に再録)
美智子『橋をかける 子供時代の読書の思い出』すえもりブックス、1998(文春文庫、2009 のち文藝春秋、2012)
「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」宮内庁ホームページ
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津野海太郎
つのかいたろう 1938年福岡生まれ。評論家。早稲田大学卒業後、劇団「黒テント」演出、晶文社取締役、『季刊・本とコンピュータ』総合編集長、和光大学教授・図書館長などを歴任。著書に『滑稽な巨人 坪内逍遙の夢』(新田次郎文学賞)、『ジェローム・ロビンスが死んだ』(芸術選奨文部科学大臣賞)、『花森安治伝』、『百歳までの読書術』、『読書と日本人』ほか。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 津野海太郎
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つのかいたろう 1938年福岡生まれ。評論家。早稲田大学卒業後、劇団「黒テント」演出、晶文社取締役、『季刊・本とコンピュータ』総合編集長、和光大学教授・図書館長などを歴任。著書に『滑稽な巨人 坪内逍遙の夢』(新田次郎文学賞)、『ジェローム・ロビンスが死んだ』(芸術選奨文部科学大臣賞)、『花森安治伝』、『百歳までの読書術』、『読書と日本人』ほか。
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