Webマガジン「考える人」

シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

村井さんちの生活

 仕事や家事に追われてうっかりしていたが、暦はいつの間にか師走である。今年は正月明けから入院するというハードモードであったため、一年がまさに飛ぶように過ぎてしまった。呆然としながら一年を振り返ってみるものの、細部の記憶がすでに曖昧であることに驚く。我ながらたいした楽天家だなと思う。自分にとっては大事件の連続に違いなかったはずなのに、一年も経たないうちにその記憶が薄れていくだなんて、私の頭は自分に都合よくできているらしい。そう思えるだけ、術後の経過がよいということなのかもしれない。「本人が治療を受けたことを忘れるのが完璧な治療。そうなれば僕らの完全勝利」という執刀医の言葉が思い出される。

 しかしながら、今年は遠い過去の記憶が鮮明に蘇る一年でもあったと思う。最近の記憶は次々と曖昧になっていくにも関わらず、色褪せたはずの数十年前の記憶は、断片的であれ鮮やかに再生することができた。病人にだけ特別に与えられた、寝ているだけでいいという贅沢な時間が、私にそれをする心の余裕を与えてくれたのだと思う。過去の記憶を何度も咀嚼することで、どうしようもない寂しさと、大きな喪失感がもたらされてしまったことも事実なのだが、同時に希望を見いだすこともできた。ちょっとしたおまけのようなものだ。

 遠い過去の記憶を紐解けば、否が応でも向かい合わねばならないのが両親のことである。父も母もすでに他界している私にとっては、再び入院した自分の姿を見せずに済んだことはよかったとは思う。しかし、私の身に起きた大きな変化を、現代の高度医療がもたらしてくれた素晴らしい変化を知らせたら、両親はどれだけ驚くか、見てみたいという気持ちがある。喜ぶのではないだろうか。厳格であった父も、そうか、よかったな、本当によかったと、涙のひとつでも流してくれるのではないか。私の病気に対して常に罪悪感を抱いていた母も、大いに感激するのではないか。しかしそれは叶わない。ここにはもういないという事実は、どうしたって揺るがない。しかしその大きな喪失感も、病気と一緒にどこかに消えたと勝手に考えている(都合よく)。

 過去の記憶を引っ張り出す作業は、地平線まで続く道を、小高い丘の上から眺めるような作業だ。今となっては自由に呼吸ができるようになったこの体が、何十年もの間、ヘトヘトになりながら、方向を見失いながらも進んできた道のりは、曲がりくねって、でこぼこで、とてもじゃないが良い道とは言えない。しかし、それでもここまで続いていることを褒めてやろうじゃないかという気持ちになる。そして、延々と続いてきた道を眺めながら、この先もこの道が続くといいなと、ちょっと控え目に考えるのだ(成長したね!)。もしかしたら再び道は曲がるかもしれないし、工事が必要にもなるかもしれない。しかし、またそれも人生。こう思えることこそ、希望なのだと思う。

 今の私には、同じ病気で不安を抱えている人の気持ちがわかる。呼吸の苦しさを訴えている人の辛さがわかる。術後の不調につきあいながら、子育てをしている人の気持ちがわかる。手術が不安で、メールを送ってきてくれる人の気持ちがわかる。そんな人たちに、直接ではないにしろ、今の私の状況を伝えることができてよかったと心から思っている。そして、私に言葉をかけ続けてくれる、同じ病気を経験した人たちの優しさが身にしみるのだ。

 経験しなければわからなかったことが、わかるようになること。これは人生を豊かにしてくれるに違いないと思う。たとえそれが辛い体験であったとしても、きっとそうだ。この年になって成長もなにもあったものではないが、私にとってこの一年は、大いに実りある一年であったと思わずにはいられない。

 ということで、読者のみなさまのますますの健康をお祈りしつつ、今年最後の原稿を書き終えたいと思う。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

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考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

“Plain living, high thinking”(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹