シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

村井さんちの生活

 とうとう恐れていた日が来てしまった。わが家の息子たちが揃って中学三年生に進級した。私はこの日が来るのをもう何年も前から恐れていて、できればこのまま何ごともなかったかのように時が過ぎ、気づいたら二人とも立派な高校生になっていた、ヤッター! …という奇跡の展開を夢見ていたのだが、そんな奇跡は起きるわけがなかった。世の中、そこまで自分に都合のいいようにはできていない。

 私が恐れているのは、例えば二人のうちのどちらかが志望校に合格しなかったらどうしようとか、受験という大きな試練に立ち向かい、挫折して、心砕けてしまったらどうしようとか、そういったことではない。

 二人の間の学力の差、体力の差、はては社交性のある(弟)なし(兄)といった残酷な現実をとうとう目の当たりにした自分が、右往左往する日が来ることに恐れを感じ…とか、そういうことでもない。本当のことを書けば、私は自分が心の底から恐れているものの正体がわからない。なぜここまで不安なのか、苦しいのか、理解できないでいる。

 これは私にとって永遠に答えを見つけることができない謎のように思えるのだが、なぜ私はここまで勝手に不安を抱えてしまうのだろう。息子たちそれぞれの辛さを、まるで自分自身の辛さのように語り、感じ、勝手に焦り、その気持ちをやり場のない怒りに変えてしまう。そんなことは絶対にしたくないのに、気づいたら口やかましく、あれをしろ、これをしろと言い、息子たちの表情を曇らせている。そんな二人の表情に打ちのめされる。私はこんな表情をさせるために、この子たちを育てているわけではないというのに、一体なにが起きてしまっているのだろうと悲しくなる。

 本人たちの焦りは完全に置いてけぼりで、自分自身が抱える苦しさを、息子たちのせいにしているのではないかと感じはじめ、反省しつつ、うっかり口を滑らせる日々が続いている。自分の思い通りに行動してくれない息子たちに、全身から不機嫌オーラを出してしまう。いや、出してしまうというか、半分意図的に出しているような気がする。気がするというか、出しているのだ、意図的に。こんな自分は嫌だ、こんな母親は嫌だと思う、その通りの人間になってしまっている…受験という一大イベントにかこつけて。

 なぜ気持ちが通じないのかと焦れば焦るほど、心の距離が遠くなってしまう。機嫌を取れば、そっぽを向かれてしまう。それは思春期だから、反抗期だからと言うのは簡単なのだが、いつまでもその状態でいるわけにもいかない。なにより、自分が苦しい。狭い家のなかで、緊張しながら暮らすのは、正直疲れるのだ。私には、優しさと、過剰に甘やかすことの境界線が理解できない。人にはよく、あなたは甘すぎると言われるが、やはりそうなのだろうかと考え込んでしまう。私のそんな一面が、息子たちに影響しているのだろうか…。

 そんな最近の自分を冷静に分析したところ、ただの押しつけを、これは親の愛ですとばかりに、どんと投げつけているだけなのだろうと理解できた。そんなものを一方的に投げつけられたら腹が立つし、重くてたまらないだろう。私自身が、自分の親にそうやって押しつけられた愛を、渾身の力を込めて全力で投げ返していたではないか。まるでドッヂボールの試合のように。それなのに、なぜ自分がそれをやってしまうのか、まったく理解できない。

 こんな時に限って、自分の苦手が自分を苦しめる。事務処理が苦手な自分、学校のプリントをなくしてしまう自分、学校への提出物をうっかり忘れてしまう自分、隙があれば昼寝したい自分、締め切りを守ることができない自分、何から何まで自分が悪いように思えてしまう(締め切りに関しては自分が悪い)。電話が鳴るたびに、今度は何が起きた! と身構え、どんどん削られ、どんどん消耗してしまう。

 決して体調が悪いわけではない。むしろ良すぎて自分でも驚くほどだ。ただ、目の前の仕事に忙殺されているだけ、現実から逃げているだけ。そう思う。だから心配しないでください。こんな時は、淡々と前に進むしかないのです。今までもこんなことは何度もあって、その都度乗り越えてきたのだから、今回もできる、絶対に乗り越えると信じるだけなのです…。

 でもやっぱり、苦しい。この一年を、コロナ禍を、二人の中学三年生を抱えながら仕事をし、家事もして過ごすなんてあまりにも大変過ぎる。デスクに山積みになる本やプリントや書類を見ると、ふと、「もう無理なのでは…」と思ってしまう。せめて、息子たちの不安を自分の不安のように振る舞ったり、語ったり、書いたりしないように気をつけなければならないと思っている。じゃあこの原稿は一体なんなのでしょう…。

 親になってあっという間に十五年の月日が流れた。いつまで経っても、私は不安を抱えたままだ。誰よりも二人を大事に思う気持ちは強いはずなのに、二人にとって何が最も大切なのか、その答えがわからないままなのだ。

義父母の介護

2024/07/18発売

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考える人とはとは

 はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。

 2002年7月4日、季刊誌「考える人」が創刊されました。

 目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。

 当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。

 まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。

 あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。

 創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。

 読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。

「考える人」編集長
松本太郎


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