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村井さんちの生活

 十二月中旬のとある日、私の携帯電話が鳴った。番号は、義母がお世話になっているデイサービスのマネージャーさんからのものだった。急いで出ると、少し沈んだ声で「村井さん、すいません…。実はデイサービスの職員から感染者が出まして…」という話だった。コロナ禍が始まってすでに三年、こんな電話にも慣れっこになった。どれだけ感染対策を徹底したとしても、相手は目に見えないウイルス。防ぎようがない場合があって当然。私は「そうですか、大変ですね」と答えた。マネージャーさんは「それで、お義母様の調子はどんな感じかなと思いまして、電話したんです」ということだった。

 その時点で、義母とは一週間程度会っておらず、状況確認のため一旦電話を切って、実家に電話をした。すると電話に出た義母、笑ってしまうぐらい声がガラガラだった。うわ~、感染しちゃったなあと思ったが、ワクチンは済んでいるし、罹ったとしても軽症だろうと咄嗟に考えた。

 「お義母さん、調子どうです?」と聞くと、義母はガラガラ声で「すごく元気です」と答えた。いやいや、声がすごいじゃないですか、もしかして風邪引いてます? と聞くと、「そうなのよ、風邪なのよ!」と答える。一体どっちなんだと思いつつ、声から判断して感染している前提で動いたほうがいいだろうと思った。電話を切ってデイサービスにかけなおすと、なんと感染者が5人に増えてしまったということだった。義母の様子を伝えると、マネージャーさんは、翌日にPCR検査を行わせて頂きますねと言ってくれた。実家まで赴いて検査してくれるというので、とりあえずお任せすることにした。ケアマネさんとも連絡を交わし、とりあえずPCR検査の結果を待とうということになった。

 その日の夜、今度は義父から電話がかかってきた。「お義母さんの調子が悪いんや。もしかしたらコロナちゃうやろか」と言う。雨が降っただけでこの世の終わりのような電話をかけてくる義父なので、コロナウイルスに感染したなんてことが発覚したら大変である。「デイサービスで出てますから、感染しててもおかしくないですよ。ワクチンは済んでるから、心配することないです」と伝え、電話をすぐさま切った。

 翌日、義母にPCR検査が行われた。結果は二日後。確実に陽性だろうと考え、義父との隔離をどうしようかと悩んだ。しかし、今さら隔離しても遅いのではという気持ちにもなった。ケアマネさんも同じ意見だった。しかし、それでは一体どうすればいいのか。頭を悩ませていると、今度は義母から電話が入った。義父が倒れて動かないというのだ! ええ! なにそれ!

 「お父さんが、椅子から床に倒れ込んでしまって立ち上がれなくなった」と義母は困った声で訴えた。え~、そうなんですか~…と答えつつ、頭のなかでいろいろと考えた。はぁ~、義父も感染か~。うわ~、嫌だなあ~(そういう問題ではないのだが)。正直、感染してしまったとしても、私に出来ることはあまりない。アイデアもあまり思いつかない。そうだ、こういうときはケアマネさんや! と考え、再びケアマネさんにメールを打った。

 「今度は義父が倒れたみたいなんですよ!」と伝えると、「エエッ!」と驚いたケアマネさんは、「今から訪問看護師さんに連絡します!」と返事をくれた。

 訪問看護師さんが来てくれるなら、私が行かないわけにはいかない。ええい、こうなったらなるようになれだ! と思い、マスクを二重にするという涙ぐましい努力をし、実家に向かった。

 到着すると、ドアというドアがガチガチに施錠された状況だった。電話を鳴らしても、呼び鈴を鳴らしても、まったく反応がない。ドアを思い切り叩いても、一切反応がない。仕方がない、合鍵で開けるかと思って、最近はバッグに常に忍ばせている鍵を探していると、ザッザッザッという、庭の玉砂利の上を走る軽快な足音が聞こえてきた。振り返ると、なんと義母だった。たぶん陽性者の上に82歳の義母が、笑顔で私に向かって走ってきていたのだ。なんという体力、なんというタフネス!

 「あら、あなただったの!」と明るく言う義母に、「お義父さんの調子はどうです?」と聞くと、「え? お父さんは元気だけど」と答える。わけわからんと思いつつ、とりあえず、実家に入り寝室に行くと、顔面蒼白の義父がベッドに横たわっているではないか。これはヤバい。呼びかけるが、あまり反応がない。間違いなく感染している。私は義父の横たわるベッドからジリジリと後ずさった。ルートとしては、デイサービス、義母、そして義父だろう。義父の方が重症だ。というか、義母は庭を走る程度に元気だ。そうこうしているうちに看護師さんが到着し、私は安堵した。ああ、助かった。プロがようやく来てくれた! 若い女性で、テキパキとした方だった。しかしそんな女性看護師さんを見たとたん、義母が反応したのだった。

 「あなたのお友達なの!? それとも、お父さんのお友達かしら…」

 こんな時に浮気妄想は勘弁してくれと思いつつ、看護師さんに決まっているじゃないですかと答えた。看護師さんは素早く義父の熱を測り、血中酸素濃度を確認した。熱は38度5分。呼吸の状態はよかったが、意識が朦朧としている。看護師さんはすぐさまどこかへ電話連絡をしていたが、電話を切ると、「救急車はダメでした。担ぎ込んでもらうしかありません」と言うではないか。えー! ヤダー!

 すでにその時夫には連絡を入れており、実家に向かってはいたが、夫の到着を待っている余裕はないように見えた。意識が半分ないパジャマ姿の義父を看護師さんと一緒に担いで、私の車の後部座席に苦労して押し込んだ。高齢者と言っても、完全に力を抜いた状態の人間は相当重い。それも段差の激しい昔ながらの造りの実家で、足元に気をつけつつ、まさに火事場の馬鹿力を出して義父を引きずり、そして2人でどりゃあ! と息を合わせて車に押し込んだ。義父は朦朧としながら、涙声で「入院は…したくない…入院だけは…」と何度も繰り返した。しまいには腹が立ってきて、「うるさい!」と言ってしまった。

 次は義母だ。看護師さんは「お母様も連れて行かれたほうがいいです。かなり混乱されてますから」と言った。義母を見ると、確かに混乱状態にあった。家のなかを歩き周り、輪ゴムを探したり、ペンを探したり、とにかく忙しく動きまわっている。興奮させないように落ちつかせながら、状況を説明した。

 「お義父さんはたぶんコロナウイルスに感染してますから、今から病院に行きます。お義母さんも行きましょう」

 「うちにコロナの人なんかおらへん! コロナの人なんていない!」

 いや、いるんだ。いるんだよ。なんならお義母さんもそうだから。

 とにかく、大人しくついてきてくれ! と心のなかで絶叫した瞬間だった。看護師さんが、私の横で「キャー!」と大声で叫んだ。看護師さんの視線の先を見ると、つい先ほど車に押し込んだはずの意識不明だった義父が、めちゃ覚醒した状態で部屋のなかを歩いているのである。

 その姿を見た看護師さんは「歩けてるやん!」と言った。私も「苦労して押し込んだのに、戻ってるやん!」と答えた。私と看護師さんは顔を見合わせて爆笑した。さっきまでの意識不明は一体なんだったのだ。義父は自分で車から降り、段差の多い勝手口を普通に通過し、寝室に戻って、トイレに行っていたのだった。看護師さんは「大丈夫そうですね。でも、熱が高いので発熱外来につれて行って下さい。今夜、不安でしょうから」と微笑みながら言ってくれた。それは私もそう思ったので、最終的に2人を再び車に押し込んで、実家近くの総合病院発熱外来に向かったのだった。

 発熱外来では、一度も車を降りることなく、検査及び診察を受けることができた。抗原検査の結果は予想通りの陽性。義父はこの時点でかなり元気になっていた。顔色も戻り、普通に会話ができる状態だった。この辺りで、「メンタルの問題だったのだろう」とうっすらと気づいた。妻がコロナウイルスに感染した疑いでPCR検査を受ける姿を見て、狼狽(うろた)えたのではないか。もちろん発熱はあっただろうが、後部座席でクリスマスと正月の話をする2人の会話を聞き、絶対に大丈夫だと確信した。本当に人騒がせだ。

 発熱外来で診察に当たってくれた医師は「呼吸状態も悪くないですし、大丈夫だと思います」と言ってくれた。結局、解熱剤と咳止めを処方してもらい、実家に戻ることができた。この翌日に義母もPCR検査で陽性が発覚し、義理の両親は2人揃ってコロナウイルスに感染したということが判明したのだった。

 とはいえ、本番はここからだった。玄関先まで支援物資を持っていくのだが、翌日までにはどこかに隠されてしまう。大きなペットボトルを何本も買っていくのに、魔法のように消えてしまう。玄関先がダメならと、リビングまで持っていき冷蔵庫の前に置いて立ち去るのだが、それでも物資は消えて行く。見覚えのない製品に違和感があるのか、義母がすべて隠してしまうのだ。義母本人は自分が陽性者だと理解しても、次の瞬間には忘れてしまうため、混乱するのだろう。そんなことが何度か続き、物資を補給しても実際に食べることが出来ないと気づいたため、今度はお弁当の宅配サービスをお願いすることに決めた。

 今までも何度か老夫婦には勧めていたサービスだが、その都度断られていた。自分たちで食べるものぐらい、自分たちで作ることができると言うのだ。調理師だった義父にとっては、そこは最後の砦のようなものだったはずなので、私も無理にとは言わなかった。しかし今回、買い物支援を含む一切の介護サービスを受けることが出来なくなってしまった状況では、宅食を受け入れてもらうしかなかった。結果的に、コロナウイルス感染をきっかけに、わが家の高齢者介護はまた一歩、先に進んだことになる。

 結局、義母が通っていたデイサービスでは複数名のスタッフと利用者がコロナウイルスに感染した。不幸中の幸いで、重症者は出なかったものの、担当マネージャーさんは連日の対応で疲れ切っている様子だった。私も、義理の両親に代わって、細かい病状の報告を保健所やデイサービスに行い、ケアマネさんとの連絡を重ね、ほとほと疲れ果てた。

 とにかく、驚くほどの感染力だ。実際にその威力を目の当たりにすると、恐ろしくなるほど。読者の皆さんも、年末年始をどうぞ元気でお過ごし下さい。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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