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村井さんちの生活

 ダブルコロナ感染という地獄のような年末を乗り越え、無事正月を迎え、めでたしめでたし…となるはずだったのだが、私の後期高齢者介護の情熱は、見事に冷え切ってしまっている。そもそも、情熱なんてものはなかった。私しかいないから、目の前に困っている人がいたら助けなくてはいけないから、必死に動いていただけのことだった。義父というよりは義母が気の毒だったから、私は行動に移したのだ。進行の早い認知症で困りごとが多い義母との間には、不思議なシスターフッドまで生まれていた。完璧なまでの専業主婦だった義母が、全ての家事を諦めた。それは彼女にとって、大きな失望であり、屈辱だっただろう。そんな彼女を見ていたら、手伝わないわけにはいかなかったのだ。そりゃあもう、過去の恨みつらみは消えていないわけだけれど、そんなことを言っていられない状況だ。正直に言えば、義父は義母のついでだった。こういった事情で三年超にも及ぶ介護生活を送ってきたわけなのだが、今、私のなかのシスターフッドまで枯渇しつつある。理由は何か。冷静に考えてみた。そして辿りついた答えは、義父だった。

 私って意地悪だなとも思う。同時に、はっきり言って冗談じゃないとも思う。何が私をそこまで苛立たせているかというと、義父の甘えである。昨年の年末、義理の両親はコロナウイルスに感染し、義母は軽症で済んだものの、義父は高熱を出して意識が朦朧とした。ケアマネさんに訪問看護師を派遣してもらい、発熱外来に運び込んだことは、前回書いた。その時の義父の行動が、ずっとずっと私の心に引っかかっている。そして取れない。「ほぼ意識不明だった義父を看護師さんと一緒に車に担ぎ込んだのに、二十秒後ぐらいにスタスタ歩いていた事件」が、どうしても納得できない。

 夫は「その時は本当に具合が悪かったんだろ。許してやってくれ」と言う。「あんたにボロカス言われる親父が可哀想になるなあ」とも言う。でも、一番可哀想なのは私と看護師さんではないだろうか。私も看護師さんも、万が一感染しても仕方がないという悲壮な思いで、脱力して意識不明らしき老人を担いで車まで必死になって運んだのだ。それなのに、一瞬目を離した隙に、軽やかな足取りで車を降りて自室に戻り、トイレに向かっていた義父。その後ろ姿は元気そのもので、つい一分ぐらい前に息も絶え絶えの白目状態で全身の力を抜き、だらんとした両足を引きずられるようにして車に乗せられた老人と同一人物とは思えなかった。看護師さんはきゃーっ! と叫んだ後に「歩けてるやん!」と大声で言っていたが、私は内心、「またやられた…」と思っていた。

 ここ数年ですっかり涙脆くなった義父は、義母との暮らしの苦労を語るとき、人目も憚らず泣くようになっていた。相手が誰であろうと、あっさり泣いてしまう。そりゃあ、お年寄りですもの、大変ですもの、泣くときもありますよ…と思う方もいるだろう。それは私も理解しているつもりだ。義父が泣くことが問題ではないのだ。問題は、泣いた直後に(それも三秒後ぐらいに)、なにごともなかったかのように普通の状態に戻っているところなのだ。普通というか、むしろ明るい。周囲にいる人間の注目を十二分に集めたことを確認すると(「つらいですねえ」「大変ですねえ」と優しく声をかけてもらうと)、義父はすっかり元気になる。両目はキラキラ輝く。完全復活を遂げ、上機嫌になる。迷惑な不死鳥だ…私の目にはそう見えた。それとも私が意地悪過ぎるだろうか。

 こういう経緯もあって、私はここのところずっと疑っていたのだ。涙声の電話で「もうどうしていいかわからんのや…たすけて…」とダイイングメッセージのようなことを言われても「OKでーす!」と上手にかわしていた。だって、本当は元気なんだもの。以前は、驚いて車をぶっ飛ばして夫の実家に駆けつけたものだったが、私の心配をよそに、義父は決まって上機嫌に庭を掃除していた。満面の笑顔だ。拍子抜けというか、腹立たしい。こんなゲームをするために私を呼びつけてくれるなという怒りが募ったものだった。

 こんなことが何回か続き、私はようやく理解した。義父は距離の近いケアを必要とする人物なのだと。義父には「大変ですね」、「つらいですね」と優しく言ってくれる誰かが必要で、彼は求めればそれを与えられるとまで考えている。というか、それは何かのプレイですか? …ここで、はっと気づいた。いままで、その面倒くさい義父の気質を受け入れてくれていた義母が認知症となり、湿度の高いケアを与えられなくなったために、義父はその面倒くさい高温多湿な気質の後始末を、ケアマネさん、ヘルパーさん、訪問看護師さん、そしてあろうことか、私にまで求めているのではないか!? キャーーーッ! 

 …ということで、私の足が実家から遠のいて、すでに三週間以上が経過している。逃げたくてどうしようもない。考えただけで、本当につらくなる。義母のことはとても心配だ。コロナウイルスに感染し、すべての介護サービスが停止して以来、まったく外出しなくなった義母は表情が乏しくなっているし、毎日のように私にかけてきた電話もぷつりと止まっている。それでも、大晦日には実家まで行き、二人に会った。会ったのだが、三年前に転倒して骨折し、それ以来まっすぐ伸びなくなってしまった右手の小指をアピールし続ける義父に、「もう無理」と思ってしまった。なんでもかんでもアピールだ。ごめんやけど、アピールが過ぎる。小指をアピールされても、なんと言っていいのかわからない。つか、やめてくれ。繰り返すが、指が伸びなくなって三年で、その間、伸びない小指をアピールされ続けている私の心配をして欲しい。かまってちゃんもいい加減にしてと言いたい。かまってちゃんが許されるのは動物だけだと忘れないで下さい。

 私が厳し過ぎるのか、それとも義父が大人げないのか。たぶん、両方だとは思うし、私が意地悪なだけなんだろうけれど、それでもやっぱり、私は義父の甘え体質から逃げたくて仕方がない。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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