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ロベスピエール 民主主義の殉教者

突然の「引退」宣言

 1793年6月6日、国民公会では5月31日〜6月2日事件の報告がされたあと、パリ・セクションは共和国を救ったという動議がジョルジュ・クートンによって提出され、賛同を得た。この山岳派の勝利によって自宅軟禁となったジロンド派議員たちは地元に脱出した。

 そうした中、事件から10日後の6月12日、ロベスピエールが突如、ジャコバン・クラブの会合で「引退」を宣言する。

 

 われわれが団結し、原理について一致すれば、愛国者は各自が自信を持ち、今はない気力を持てるだろう。私にはそれが不足していることを告白する。アリストクラシーの陰謀と戦うのに必要な気力がもはやない。四年間に及ぶつらいむなしい仕事に疲れ果て、精神的にも肉体的にも己の能力は偉大な革命が必要とする次元になく、職を辞するつもりであることを宣言する。

 

 そのとき、「やめないで、やめないで」と慰留する声が場内に飛び交った。

 これまでの経緯を考えても、彼が疲弊していたのは確かだが、なぜこのような宣言をしたのか。しかも、数日後すぐに気を取り直した様子に多くの伝記作家は首をかしげる。ただ、演説の冒頭ではヴァンデーでの惨劇[第12回でも触れたこの時代最大の地方の「反乱」]に言及し、国内外の敵が「共和国の破壊」を企んでいると指摘、「新たなデュムリエが、国民公会とジャコバンに対して我が国の軍隊を煽動しようとしている」と語って危機感をあらわにした。そのうえで、国民公会は人民と結束するべきだと訴えており、「宣言」はそのレトリックからなかば必然的に生まれたのかもしれない。つまり、〈公〉の結束のために〈私〉を消すというレトリックであって、みずからがその範を示したということか。

ヴァンデー戦争(1793年10月)

 「単一の意志が必要だ」、とこの時期に書かれたとされるノートには記され、そのためにはブルジョア(資産家)を打倒する必要があることが強調される。「国内の敵はブルジョアに由来する。ブルジョアに勝利するためには、人民を結集しなければならない」。「四年間に及ぶつらいむなしい仕事」を顧みてブルジョアを〈敵〉と見定め、人民の結束を訴えたとも考えられる。

 それにしても、である。精神的にも肉体的にも己の能力の限界を吐露し、「引退」宣言までした背景には、何か心境の変化、あるいは心の動揺があったと考えるのが普通ではないか。それを読み解くうえで、その直後にブルジョアを〈敵〉と見定めたことは案外重要かもしれない。ジロンド派はもとよりモンターニュ主流派もブルジョアで、その階級的支持を得ていたことを考えると、ロベスピエールの想念はその枠から踏み出たことになる。政治(党派)的対立を超えた社会経済(階級)的対立がもたらす軋轢が、「宣言」の背景にあったのだろうか。

 確かに、アラスへの帰郷(第9回)でも再確認したように、彼は法曹家として「抑圧された人々」と称される貧しい民衆の弁護を引き受け、彼らのために政治家となったはずである。一方で、ロベスピエールが一貫して自身の行動原理としてきたのは人権宣言だった。この点でのブレない姿勢が、ミラボーやダントンのような立派な体躯の指導者とは異なる、痩せ型で背が低い革命家への広範な人気の秘訣だった。彼が「私は人民の一員である」と言うとき、理念化された〈人民=民衆〉は、多くの場合、階級的対立を超えて有権者を包含する概念だったのである。言い換えれば、ロベスピエールのなかで議会の政治的対立は具体的な社会経済的対立を前提とせず、少なくともそれを表現する政治(権利)の用語をこれまで知らなかった。

 しかし、ブルジョアを〈敵〉認定したときには、彼はその用語を持っていた。それは「引退」宣言のふた月ほど前に公表された「人間と市民の権利の宣言」(人権宣言)私案で現れる。

ロベスピエールの人権宣言(案)

 「人権宣言」私案は4月21日にジャコバン・クラブで公表され(議員と新聞編集者を兼任することが禁じられたために最終号となった『有権者への手紙』に草案を掲載)、24日国民公会で発表された。その中では、「抑圧された人々」の生活の《権利》が提示されたのである。

 

第2条 人間の主たる権利は、自己の生存の維持に備える権利と、自由である。

第3条 これらの権利は、肉体的・精神的な能力の相違に関わりなく、すべての人間に平等に属するものである。

権利の平等は自然に定められたものであって、社会はそれを侵害するのではなく、その平等を幻想にする力の濫用に対して、もっぱらそれを保障するものである。

 

 ここに憲法史上初めて、「自己の生存の維持に備える権利」という意味での「生存権」が宣言されたと言うことができる。それは「すべての人間に平等に属する」権利だと観念された。

 なるほど、当時の議論のなかでも生存を《権利》とする規定は突出していたが、中身は比較的抽象度が高く、パフォーマンスという意味合いが濃厚だったとする見解もある(波多野敏『生存権の困難―フランス革命における近代国家の形成と公的な扶助』2016年)。ただ、これまでロベスピエールの思想形成に寄り添ってきた、そしてこれからも寄り添うわれわれにとっては、それを単なる政治的パフォーマンスとして切り捨てることはできない。この点で、彼が《権利》を唱える一方で、所有の制限に踏み込んでいることには注意するべきだろう。

 同宣言第6条で所有権を規定したのに続き、第7条では「所有権は、他のすべての権利と同様、他人の権利を尊重する義務によって制限される」とある。さらに、「生存権」の内容が具体的に記されている。

 

第10条 社会は、労働を確保することにより、また労働しえない人々には生存する手段を保障することにより、全構成員に対して、生活の必要を満たす義務を負う。

 

 続いて、第11条では、「生活必需品が不足している人に不可欠となる扶助は、余剰を有する人々の義務である」と規定されている。ここで、無産者と有産者の存在を対置したうえで、後者が前者を扶養する義務を負うべきだと明言されているのである(実際は階級を単純に二分できるわけではないが)。この点では、ブルジョアを〈敵〉と見定めたのと同じ頃の別のノートで、ロベスピエールがこれから取り組むべき優先事項の一つとして「生活必需品と人民法」と書いていた事実も見逃せない(Leuwers, Maximilien Robespierre, 2014)。

 とはいえ、私案では両者の対立を強調するよりも、その義務を履行することで両者が共生する可能性を示しているようにも見える。実際、「財の極端な不均衡が数多くの悪弊と犯罪の源泉であるが、それに劣らず財の平等は空想であると確信している」と同演説で打ち明けている。続いて、次のようにさえ語る。「私にとって、それ〔財の平等〕は公共の幸福以上に私的な幸福にとってずっと必要ではないと信じる。富裕を禁止するよりも、清貧を名誉にするほうがもっと重要だ」。  

 ロベスピエールは一貫して私的所有権を擁護し、「財の平等」には否定的だった。彼が強調するのはあくまで「権利の平等」であって、その思想にコミュニズムの原型を認めることはできない。リュクルゴス、およびプルタルコスの描くスパルタには魅了されても、そこでの土地の共有や均分法の考えには反対を貫いた。

 このように所有権を前提としたロベスピエールの生存権論は、社会経済(階級)的対立を踏まえながらも、一方の階級に加担しないという意味で両義性を有していた。この両義性は何に由来するのか。これを検討する作業は、「引退」宣言の理由とともに、恐怖時代、今後の革命政府におけるロベスピエールの思想と行動を理解するうえで避けて通ることはできない。その思想に決定的な影響を与えたとされるのが「エタンプ一揆」である。

「飢えない権利」

 その思想(・・)の表明は実は前年末(12月2日) 、民衆の暴力の原因に関する議会演説に遡る。よく知られた同演説でロベスピエールは、生活必需品ではない食料品については商業の自由に委ねられるというのが常識的な考え方だが、人は自分や子どもにパンを買うほどには豊かでなければならないと述べる。飢えて死ぬ同胞市民がいる中、パンを蓄財する権利は誰にもない。

 

 社会の第一の目的は何か?それは人間の侵すべからざる権利を保障することである。これらの権利で第一位のものは何か?それは生存する権利である。

 

 こうして「生存する権利」が諸権利の中でも第一位のもの、その優位が表明されていた。確かに、89年の人権宣言にもある所有権は認められるべきで、商業・流通の自由はむしろ「人民の血」である生活必需品を行き渡らせるために必要だ。しかし、それらが「生存権」に反するならば、それは「同胞市民から強奪し、彼らを殺す権利」となってしまうと弁士は訴える。

 

 議員諸君、思い出してほしい。あなた方はある特権階級の代表ではなく、フランス人民の代表である。秩序の源泉は正義であることを忘れないで頂きたい。公共の静穏のもっとも確実な保障は市民の幸福であり、諸国を引き裂く長い動乱は、もっぱら原理に対する偏見、一般的利益に対する利己主義の戦いであり、弱者の権利やニーズに対する有力者の虚栄心や情念の戦いなのだ。

 

 ここでは、「富裕なエゴイストたち」が標的にされ、かつて敵だった貴族や王侯たちと彼らが重なりながら、(特にこの直後の国王処刑後は明確に)取って代わる様子が窺える。「生存権」の優位という思想が生まれた背景には、こうした社会経済(階級)的対立があった。

 ロベスピエールがこの種の対立を革命当初から認識していたわけではない。彼にとってその対立の認識の原点になったのが、同年エタムプ市で発生した騒擾事件だった。かつてそう指摘した革命史家の遅塚忠躬氏は、事件を弁護する請願を書いた村の司祭ドリヴィエの思想を丹念に調査し、革命家へのその影響を指摘した(以下、『ロベスピエールとドリヴィエ』1986年参照)。

 「エタンプ一揆」は92年3月3日、パリの南方約45キロに位置するエタムプ市で、周辺農村の蜂起者5〜6百人に同市民が合流して起こした事件である。それは民衆が実力に訴えて商人の投機や独占に対して穀物価格の統制を要求するという、当時頻発した騒擾事件の一つだが、鎮圧にあたった市長シモノーがその渦中で殺害されたため、議会に大きな衝撃を与えた。

ジャック・ギヨーム・シモノー

 ここで注目したいのは、事件そのものではなく、その直後に議会に連名で請願を提出し(3月9日受理)、事件を弁護しながら「取引の自由」を批判、穀物価格の統制を要求したピエール・ドリヴィエの思想である。議会が国民衛兵を派遣し強硬な措置を講じる中、ドリヴィエは新たに長文の請願を起草し議会へ提出するが(5月1日)、その前にジャコバン・クラブに伝達に行き、演壇に立った(4月27日)。その場にはロベスピエールもいたという。事件の4日後には、「人民の運動はすべて正しく、人民の過失はもっぱら政府の犯罪である(拍手喝采)」と議会で語ったロベスピエールには、同事件とともにドリヴィエの演説および請願が深い印象を残したのだろう。自身の新聞『憲法の擁護者』第4号(6月7日)に、そのほぼ全文を掲載した。

 ドリヴィエの長文の請願で特筆すべきなのは、法への遵守は当然としながらも、人民の抵抗を正当化し、その理由として「飢えない権利」を挙げていることである。「生存権」という言葉こそ使わないが、労働者への社会の福祉を《権利》として定式化したのである。それに反する現状を、抵抗が正当化されるべき―今回の事件の殺人とは区別される―「政治の不正」だと司祭は糾弾したのだった。

 その際、みずからの死を招いた市長シモノーへの批判に多くの文章が費やされる。「エタンプ市長は、結局のところ、穀物商人たちにとっての英雄だったのだ」と述べ、自身も穀物取引に関与したシモノーは商人階級の利害の代弁者だったと断じる。つまり、シモノーは大ブルジョアの典型的な人物で、その代弁者として描かれる一方、その犠牲者である労働者が対置されて描かれ、この事件の背景には社会経済(階級)的対立があったことが示唆されるのである。

 ロベスピエールは請願を再録した号で、「シモノーはまったく英雄ではなく、その地方では公共の生活必需品に対する強欲な投機家であると一般に見なされていたのであり…、彼は犠牲者である前に罪人だった」と書いている。この一文には、エタンプ一揆とその背景にある利害対立の認識において、ロベスピエールがドリヴィエから受けた明確な影響を認めることができよう。遅塚教授の言葉を借りれば、「シモノーの階級的立場に関するドリヴィエの見解は、政治的対立の背後に経済的・階級的利害の対立があることを、ロベスピエールに初めて明確に意識させることになったのである」(前掲書『ロベスピエールとドリヴィエ』)。

 それでも、司祭の影響を過大に評価すべきではないかもしれない。ドリヴィエは請願で「飢えない権利」を人間に自然な権利として唱える一方で、それを保障する手段として私的所有(権)の否定を指摘した。だが、ロベスピエールは「人権宣言」私案で所有権を擁護し、同案を公表した演説では「財の平等は空想である」と語っていた。また、例えば前年の相続(法)における不平等に関する討論(4月5日)でも、「財の不平等を増大させる傾向のある制度はすべて有害で社会の幸福に反している」としながらも、「完全な平等」は不可能で、「極端な不平等があらゆる悪の源泉である」と主張、そのうえで(・・・・・)「生存権」につながる議論を展開したのである。

 

 ある階級が何百万の人々の栄養を奪うような国に、美徳や名誉があるだろうか。大きな富は、それを持つと同時に羨む人々を堕落させる過剰な贅沢と快楽を生む。そのとき、美徳は軽んじられ富だけが名誉になる。(中略)〔そして〕人は権利の観念を失い、己の尊厳の感情を失った。

 

 このようにロベスピエールは、財の不平等それ自体ではなく「極端な不平等」を批判すると同時に、富が唯一の名誉となり、すべての人間がそれを羨むような美徳なき社会を問題にしていた。この点では、ドリヴィエではなく『人間不平等起源論』の著者との類似を指摘しなければならない。同著でルソーは、不平等それ自体ではなく現行社会の「過度な不平等」を批判し、それに対して単なる生存を超えた「自己保存」を自然権として提示したのである。

 要するに、エタンプ一揆とドリヴィエの請願を通じて、ロベスピエールは政治的対立の背後にある社会経済的対立を深く認識することになり、「生存権」を唱えるようになったとしても、それ以上の富の不平等の是正は求めなかった。このことは、「抑圧された人々」(農村の貧農や都市の民衆)だけに加担しない彼の思想と行動を端的にあらわしている。

 93年5月10日国民公会で新憲法について審議され前文と第1条が採択された際も、その直前のジャコバン・クラブでこう訴えた。「人類愛に導かれたサン=キュロットが規範として従ったのは、社会秩序の真の原理であり、彼らは財の平等を主張したことは一度もなく、権利と幸福の平等を主張したのだ」(8日)。これは、サン=キュロットすなわち民衆の政治的主張がブルジョアジーの経済的利害を損なうものではないと、後者に配慮を示した発言だと理解できる。

 実は、社会の第一の目的は「生存する権利」であると高らかに宣言した先の演説でも、冒頭で「私が弁護しようとしているのは貧しい市民の大義だけでなく、所有者や商人自身の大義でもある」と宣言していたことは見逃せない。「それら〔独占のような濫用を抑止する手段〕が商業の利益や所有の権利を侵害するものではないと私は主張する」とさえ言った。

 結局、ロベスピエールは社会経済的対立を深く認識する一方で、その対立を調停する可能性を模索していたのではないか。ところが、5月31日〜6月2日事件は一方の階級の主な代表と目されたジロンド派を追放する結果に終わり、もう一方の階級の勢いがますます増してゆく。その中で行われたのがあの「引退」宣言だった。そのときマクシミリアンの胸中は揺れていた。

新憲法と「蜂起」の理由

 93年夏、ジロンド派追放後のフランス国内もかつてなく揺れていた。逮捕を免れたブリソ派議員たちが、地元に戻って抵抗運動を組織していたのである。

 地方にはパリ民衆の過度な影響力とその声を聞き入れることで力を増すモンターニュ派への不満が蓄積されており、各地で蜂起が続発した。これは「連邦派(フェデラリズム)」の反乱と呼ばれるが、すでに述べたように(第11回)、連邦主義が正確に理解されていたわけではなく、これはパリに権力が集中した体制への批判を指したものにすぎない。当時83あった県のうちパリに敵対的だったのは約50もあり、明確に抵抗したのは南部のリヨンやマルセイユ、北部のブルターニュやノルマンディー地方などの12ほどの県だった(山崎耕一『フランス革命』)。

 そういった中、新憲法の制定が急がれたのである。なぜなら、ジロンド派追放すなわち人民の「蜂起」が正当化される必要があったからだ。逆に言えば、パリの支配が正統であるかは自明ではなく、中央への抵抗を、反乱や反逆とするのはあくまで革命指導者(モンテーニュ派)の史観であることには注意が必要である。

 6月24日、ついに国民公会で新憲法(いわゆる1793年憲法)が採択された。同憲法は、フランス最初の国民投票によって圧倒的な支持で可決された。投票者数180万というから投票率は3割ほどだったと考えられるが、前回の普通選挙と比べれば高い。

1793年憲法(革命歴第1年憲法)

 先頭に置かれた人権宣言では、「圧政に対する蜂起の権利」が規定された。ロベスピエールの私案第24条はそれと同じ内容を持つ。ただ―革命ないし共和国の一体性を脅かすと彼ら山岳派の考える連邦派の「反乱」は論外だとしても―、彼が私案で階級的対立に根ざした蜂起、いわば経済的理由による蜂起を念頭にしていたかは疑わしい。

 そもそも、ドリヴィエの請願が掲載された『憲法の擁護者』の次号で人民の抵抗を正当化する理由を示した論説でも、経済というよりもルソーを思わせる法や政治の言語で議論が展開されていた。いわく、「国民の意志」に反する法を維持しようとする者は誰であれ「法」に反する者である。「彼は立法権力が存する主権者に反抗しているのだ。この場合、法自体が法であることをやめる」。「そのとき、法は一般意志の表現であるというのはフィクションでしかない。私は最大多数の意志、そうと考えられる意志に従うが、正義と真理だけを尊重する」。

 そして、「構成された権力」を行使する人間と主権者を区別し、前者が一般意志に反する圧政を断行すれば後者である人民による抵抗が正当化されるという。ここで、人民の抵抗ないし蜂起の理由は「経済的」というより「政治的」である。

 その一年後、パリをはじめ多くの地域で食糧騒擾が頻発する中で行われたジャコバン・クラブの演説も、同様な観点から理解できるだろう。2 月25日の演説でロベスピエールは、人民に固有のニーズが満たされないことに騒擾の原因があり、人民はみずからそれを満たす「権利」を持つとするが、続けて次のように明言したのである。

 

 人民が立ち上がるときは、それに値する目的を持つべきではないか?(中略)人民が立ち上がらなければならないのは、砂糖を収集するためではなく、悪党を打倒するためである(拍手喝采)。

 

「経済的」理由による民衆の蜂起への消極的な評価がある一方、蜂起あるいは革命はそれより価値のある(・・・・・・・)「政治的」目的を持つべきだという理念がここにはある。

 また、1793年憲法(人権宣言)では、私的所有権が認められる一方で、第21条に「公的扶助は神聖な義務である」と書かれたが、それはコンドルセが起草したジロンド派憲法草案にも見られる。結局、公的救済はモンターニュ派にとっても「恩恵」にすぎず、対象も「不幸な市民」に限定された点で、それは「権利」としての公的扶助を唱えたロベスペールの私案とは対比される(辻村みよ子『フランス革命の憲法原理』1989年、第3章)。ただ、あえて反論もしなかった彼はここでも、諸階級の協調、少なくとも同派内の融和を優先したのではないか。

 憲法採択の翌日、議会でジロンド派の粛清を主導した一人とされる過激派(アンラジェ)のジャック・ルーが同憲法を批判した。サン=キュロットの一方のリーダーで「赤い司祭」の異名を持つルーは、同憲法が投機を規制していないと批判し、それによって金持ちが優遇を受ける「商人の貴族主義」を論駁したのである。

 これに対して、ロベスピエールは厳しく非難した(28日ジャコバン・クラブ)。彼は25日の国民公会で、〈敵〉が議会内に内戦を持ち込もうとしているときに「分裂の情景」を見せるべきではないとも語っている。革命指導者はその行動で政治的統合を優先したのである。ただ、「生存権」の優位という思想自体は、本人の意図を超えて、勢いを増す一方の階級の行動を下支えする力を持ちえる。

 「引退」宣言の背後には、諸階級に対するロベスピエールの両義的な態度があったが、革命の進行は、そのような曖昧な態度を許すことはない。ジロンド派追放後に事態が落ち着くことはなく、むしろ混乱が深まる中、翌月いよいよ公安委員会が新たに結成される。そして、苦心する革命指導者もついにその一員に加えられることになる。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

高山裕二

明治大学政治経済学部准教授。博士(政治学)。専攻は政治学・政治思想史。著書に『トクヴィルの憂鬱』(白水社、サントリー学芸賞受賞)、共著に『社会統合と宗教的なもの 十九世紀フランスの経験』(白水社)、『近代の変容(岩波講座 政治哲学 第3巻)』(岩波書店)などがある。

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