阿佐ヶ谷駅を降りたら阿佐ヶ谷姉妹さんの巨大な写真が出迎えてくれた。
阿佐ヶ谷姉妹さん。同じ中央線沿線でもほかの駅ではこうもしっくりこなかったはずだ。高円寺姉妹なら阿波踊りの笠をかぶった姉妹である。荻窪姉妹だと武蔵野姉妹の親類だ。中野姉妹では単純に中野さんちの姉妹だし、西荻姉妹では東京女子大に通う姉妹が思い浮かぶ。阿佐ヶ谷だけが、あのお二人の出現を待っていたかのように至妙のコンビネーションを見せる。阿佐ヶ谷だからこそ、(ほかの中央線の駅にくらべて)主張がひかえめで、結果、生じる懐の深さがあったからこそ、あの、道に迷ったら真っ先に尋ねたくなるような雰囲気のお二人と、手を取りあうことができた……。阿佐ヶ谷駅のホームから改札へと続く短いエスカレーターを降りながら、二人が微笑む横断幕を見ながら、そんなことを考えていた。 大学へ通うのに、中央線をつかっていたこともあって、このあたりは長いつきあいである。中央線の駅はそれぞれに個性が強くて、そんななかでは、阿佐ヶ谷は比較的押し出しの強くない柔らかなイメージを勝手に抱いてきた。そして阿佐ヶ谷のそういうところが好きなのであった。
改札を抜けると阿佐ヶ谷姉妹のバナーの真下に、いつものように編集Mさんが待っていた。実はMさん、春に足を怪我してしまい、しばらくロビンソン酒場はおあずけだった。久しぶりに、酔狂な漂流につきあってもらえるので私はウキウキしていた。さりとて、中年もはしゃぎはケガと背中合わせである。久しぶりに草野球に参加してアキレス腱を切るおじさんの轍は踏みたくないので、ウキウキもほどほどにおさえなくてはならなかった。
阿佐ヶ谷姉妹の笑顔の真下にいたMさんは定番のサングラス姿であった。夏もののハットをかぶっていて、ジョン・べルーシとダン・エイクロイドを足して2で割った雰囲気に決めている。いつもと違うのは、傍に青年が一人いたことだった。まだ足元に不安が残るMさんの荷物持ちとして、長髪青年Aくんが付いてきてくれたのであった。Aくんは、Mさんとはカレーを探求する仲間で、ロビンソン酒場漂流記のファンなのである。いつか、九州某所にある、最寄駅から徒歩90分という究極のロビンソン・カレー店に同行したい。
暑いさなかに待ち合わせたので、挨拶もそこそこに駅の北口に出た私たちは、すぐに足を止めた。角に焼き鳥屋があってガラスケースから秋波を送るのである。誘惑には逆らわないのが正しき中年のありかただと考えているので、辛味噌のからんだ焼き鳥を購入した。大通りに出たらパクパクやろうという魂胆なのであった。こうなると早足になるのが、食欲に忠実な中年世代なのだが、私たちははたと足をとめた。『横濱ラーメン あさが家』という看板のせいだった。そこで私たちは、ひとしきり「パリス吉祥寺新宿店」や「明大中野八王子」といった、果たして実際何処にあるのか私たちを常に迷わせるネーミングについて語りあった。
長い道のりののっけから足止めを喰らうのがロビンソン酒場の定石だが、阿佐ヶ谷駅から大通り「中杉通り」は近い。のろまな私でもすぐに大通りに出た。この通りは、杉というくせに欅の立派な並木道である。 杉並区役所から練馬の貫井まで5キロほどつづく。阿佐ヶ谷駅近くから北上して早稲田通りと交差するまで欅が立ち並ぶのだ。 実は、私が今回訪れるロビンソン酒場を見つけたのは、この欅のせいである。以前、このあたりをぶらぶらしていた日のことだ。誰となぜ歩いていたかは聞かないでほしい。人には歴史がある。とまれ、この欅の通りが素敵で散歩するでもなく歩き続けているうちに出会ってしまったのが、今回のロビンソン酒場なのである。並木に見とれて道を行きつづけるのはクセのようなもので、高校時代にはマレーシアのゴムの木の並木に見とれているうちに全く知らないところに着いてしまったことがある。あの時、ほんとうにロビンソンになってしまいそうだった。
中杉通りに出た私たちは、真っ先に駅近くで手にいれた焼き鳥を食すことにした。透明のプラスチックのパックをパリパリと音を立てながらあけると、ふわっと唐辛子の辛い香りがたちのぼる。やおら串を口にはこびもぐもぐ。まだ暑いなか、辛いものはカンフル剤のように人を元気づける。路上で中年が明るい時間に焼き鳥を頬張っていると、道を行く人たちが、かすかに気の毒そうな目を向けるが、気にしない。路上で焼き鳥を喰らうとき、おじさんは、サル・パラダイスとディーン・モリアーティになるのである。
今回のロビンソン・ウォークには迷子になる不安がない。中杉通りに出たら、あとはただ真っ直ぐ歩くだけでいいのだ。猫でも行ける。以前、その店に行ったときも、ひたすら欅を眺めながら歩いたらいつの間にかたどり着いていた。
だからといって油断していたのではない。しかし、おりからの猛暑のなかのロビンソン・ウォークはなかなかの負荷なのであった。じっとりと汗をかき、ともすれば景色を見る余裕も失われていく。途中、いかにも旨そうな蕎麦を出しそうな店を見つけたとき、「これはロビンソン酒場の帰り道に寄って、しめの盛りなんかいただいちゃいますか」などと、威勢のいいことを言ってはみたが、おそらく帰りは体力が無くてスルーするのは間違いなかった。
欅は美しく、葉は空をしっかりとさえぎるほどに濃く繁茂していた。お寺の境内などで見かける欅はまん丸な姿をしているが、この並木の欅は箒を逆さに立てたようなスタイルでどこかヨーロッパの並木のようだ。 規則的に並んだそれは美しく、真っ直ぐな道によく似合っている。しかし、この真っ直ぐさに魔物が潜んでいた。
高速道路で眠くなる現象をハイウェイヒプノシス、日本語で高速道路催眠現象という。変化のすくない高速道路で眠くなりやすい現象のことだ。真っ直ぐな中杉通りを歩きながら、私は、ハイウェイヒプノシスならぬアヴェニューヒプノシスとたたかっていた。そしてたぶん、みんな眠くなっていた。夕方になっても下がらない気温と一定のリズムで並ぶ欅並木の眺め。何よりも真っ直ぐな中杉通り。中年二人を否応なく睡魔が襲いかかる。もちろん無抵抗ではない。口数が増え、目につくものすべてにツッコミをいれはじめる。ほぼ全く面白くない駄洒落に爆笑する。まだ夕方5時だというのに、二人の中年は徹夜明けの興奮状態に似ていた。ただ一人、Aくんだけが冷静だった。若さが心底羨ましかった。脳内にはパバロッティの『誰も寝てはならぬ』がリフレインしていた。
自販機を見つけるとすぐに水か茶を買う。エナジードリンクは一瞬元気がわいてくるような気がするものの、胸焼けすることもすくなくない。いろいろ気をつかいながら歩かないと、この酷暑ではおちおち呑みにもいけない。二本目のペットボトルのお茶を三分の一ほど飲み、早稲田通りとの交差点にさしかかったとき、前方に黄色い看板が立っているのが視界に入った。着いた。ついに。
目的の店だった。居酒屋丸山という。黄色い看板と赤提灯に縄暖簾。引き戸は腰高でガラスの格子。逆らえない佇まいである。訪れるのは何年ぶりだろうか。道は綺麗になった気がするが店は変わりない。引き戸を開ける。エアコンで冷やされた涼しい空気がふうっと玄関から外へと逃げ出す前に慌てて閉める。左手にカウンター、右手にテーブル席。奥に小上がりがある。厨房はカウンターの奥にあって、中にご主人がいる。
「いらっしゃいまし」
フロアにいた、たくましい青年が出迎えてくれて、私たちをテーブル席へと案内した。低い背もたれの四角い座面の椅子に腰をおろしたとき、3人そろって
「ああああ」
と嘆息した。これがロビンソン酒場だ。
まずは、と生ビールを注文した。案内してくれた青年がにこりと笑ってうなずいた。
腰をおろして店内を見回す。良い。良い店だ。
この店はまず店内の空気がいい。旨い店は空気がよどんでいない。空気は澄んでいるが、良い香りはしっかり漂っている。カウンターの奥から漂う料理のにおいが香ばしく、あれほど眠かった中年二人の目は早くも爛々としていた。
カウンターの上にホワイトボードがあって、その日のおすすめが30品ほど書かれている。これだけ注文しても満漢全席である。ほかにラミネートされた定番メニューもあって、そちらにはざっと数えても70種類近い料理がある。厨房の前のカウンターには、常連さんとおぼしき人たちが数名、一人で来て「この一杯」を呑んでいる。仕事を終えて一杯やる人の背中を見ながら、私は自分の背中の緊張感の無さに思いを馳せていた。なで肩猫背のおじさんは、一生、背中で語ることなどないのだろう。
一杯目のビールをぐいとあおり、まず水ナス刺身とエシャレットを注文していた。上がりすぎる血糖値を慮ったのではない。近頃、気づけば野菜ばかりツマミにしているのである。
薄く切った水ナスはたっぷり汁気をふくんでいる。野菜がふくむ水は降り注いだ雨がまわりまわってたくわえられたものだと思うが、あの雨が、どうしてこうも、柔らかな甘みのある汁に変われるのだろうか。一方でエシャレットは強い香気と辛みがさえる野菜である。ガブリとやると、ぐわっと鼻腔にニンニクと胡瓜
と玉ねぎの旨いところをまぜたような、刺激的で食欲を促す香りが広がる。乾杯であらかたなくなってしまったジョッキの残りのビールがすぐに蒸発した。
ホワイトボードのおすすめ、かんぱちの刺身と小肌を注文。それに鳥天ぷらを頼んだとき、3人の目があるメニューに釘付けになった。
「くずれうなぎ焼」
おそらくは身がバラバラになった鰻なのだろうと想像しつつも、どこかで、崩れた鰻、つまり、しどけない、コケティッシュな鰻を想像していた。そういうものは確かめないといけないから迷うことなく注文した。
さらに赤ウィンナーと目玉焼きに鳥の唐揚げまで一気にオーダー。いきなり水ナスでしみじみしていたおじさん二人とは思えない……実際、この日は若手のAくんがいたので、その影響も多分にあった。
おじさんは、若い人がガッツリしたメニューをもりもり食べるのを見るのが何より好きだ。その光景をツマミに2合は呑める。そこには希望がある。エネルギーがある。
厨房は一人なのに、手際よく、次から次に注文の料理があらわれる。
かんぱちは富山県民でもないのに、
「こりゃあ、きときとだ」
と、口走ってしまう新鮮さ。身はほどよくしまり、歯触りはむっちり。身の繊維の間から、軽やかな出汁があふれる。小肌も締め具合が素晴らしい。そもそも全身が酸性になったおじさんとはいえ、酸っぱすぎるのは胸が痛くなる。そのあたりの気配りにも余念がない仕上がりで、きゅっとしまった酸味ながらあくまで喉越しは優しい。小肌の身質も締まっていて皮から身にかけて歯が通るとき、じわっと旨い汁を感じる。
鳥天ぷらはというと、これはあわせて出てくるカレー塩が実にいい塩梅なのだった。ふわりとした薄い衣をまとった鶏はほくほくとした揚げ具合。微かに甘さを感じる衣の優しい食感とさわさわと崩れる鶏の肉質がぴったりあう。そこにカレー塩のスパイシーな香りとシンプルな塩味がくわわると、いきなり、ツマミとしての強力な存在感を発揮する。作り手の迷いの無い調理と味のイメージが、こういう旨くて太い陰影のあるツマミを作るのだ。
「私、10年くらい前にお邪魔したんですが、もうお店は何年くらいやっておられるんですか?」
カウンターの前の客が一回転し、ちょうど手がすいたように見えたので、カウンターの中に向かって話かけた。
「もう25年になります」
教えてくれたのは店主の丸山秀之さんだ。年を聞いたら同い年だった。
生まれは阿佐ヶ谷。子どもの頃から野球が大好きだった。地元の中学校を卒業したあと、高校も野球の推薦で進学した。甲子園にたびたび出場する強豪校だった。だが、
「子どもの頃からプロ野球選手が夢だったんですが、初日にその夢はあきらめました」
今よりも野球の競技人口も多く、毎日地上波でナイター中継をしていた時代だ。強豪校の野球部には才能ある若者が集められ鎬をけずるのは今も昔も変わらないだろうが、子どもの人口が多かった時代だけに、その競争は激烈だったはずだ。
「僕の上の学年も下の学年も甲子園には行ったんですが、僕の代は行けなかったんですよ」
三年間野球漬けの日々をおくり、飲食の道に進んだ。父が料理人だった影響もあったそうだが、卒業後は寿司店に修行に入った。でも一年でそこをやめた。
「陰湿さについていけなくて」
と、笑う秀之さん。それからトラック運転手に転身したが、ふたたび飲食の世界にもどった。親類が営む 阿佐ヶ谷の名酒場で修行し、そこで仕入れから調理までノウハウを学び、26歳のとき、この店を開いた。
この場所は元々実家のあった場所だった。駅からは離れているから本来商売向きの立地ではない。実際、南側の阿佐ヶ谷駅からも北側の鷺ノ宮駅からも、歩けば10分以上かかる。飲食業には不利なロケーションだったが、豊富なメニューを手頃な価格で提供し、飾らないホスピタリティで客を包みこむように営み、四半世紀の歴史をかさねてきた。その夜も、金曜日の晩だったが、気づけば店はほとんど満席になっていた。それでも、
「金曜日がいちばん入らないんですよね」
秀之さんによると、いよいよ週末をひかえる金曜は皆駅前で呑んでしまう。そうすると、ここまで歩いてきてもう一杯とはならないらしい。だから丸山は、誰もが呑みたがる金曜以外の日に、日常の酒と食の場を提供することに努めてきた。値段のレンジも幅広いし、メニューも朝ごはんのように軽いものからどっしりしたものまでバラエティ豊かだ。
努力は休みの日にも怠らない。
「阿佐ヶ谷にもいっぱい店があって、その流行り方も廃れ方もずいぶん見てきましたからね。マンネリにもしたくないし、休みの日にどこかで食べたときは、いつも何か持ち帰ろうって思うんですよ」
そうして、地元の人に愛される名店に育てあげた。育てたのは店だけではない。いま店を手伝っている若者は秀之さんの次男、洸介さんで、ゆくゆくは店を継ぐ予定だ。
ただ不思議なことに、これだけ、努力を積み重ねてきた店にある「可視化された気合い」のような要素が感じられない。たしかに、お揃いのTシャツを着たりして、そこは熱い連帯があるが、元気な店の「圧」のようなものが感じられないのだ。それが、この店の心地良さでもある――
二代目の洸介さんが、
「くずれうなぎです」
と言って運んできたのはご飯のない櫃まぶしのような一品だった。短冊というよりはザク切りした焼いた鰻はいいタレの味がしみている。千六本に切った胡瓜がそえられていて、これと一緒にいただくと、濃厚と淡麗が一緒になって舌の上で踊る。こうなると相棒は日本酒。洸介さんが枡のなかに置いたコップになみなみと注ぐ。美しい表面張力は東京ドームの天井のようにこんもりしている。妙技。
調子にのった私たちはそれから、
鳥の唐揚げ
さばへしこ
鳥皮焼き
こちの刺身
以上を一気に注文した。調子に乗りすぎである。
唐揚げは大粒で鶏の肉汁をたっぷりたくわえながら、しっかりと火が通り歯触りも軽い。衣も薄く噛めばいい音楽を奏でる。ここのツマミは全般的に塩味が強くない。無理やり呑ませようとしない爽やかな味つけ なので、このタイミングでへしこが来ると、きゅっと効いた塩味がアクセントになって、だらだらしがちな呑みの席に良いメリハリを与えてくれた。
実は皮が好きでたまらない。焼き鳥の皮である。焼き鳥屋で皮を食さずに帰ることは、まずない。皮loverなのである。焼き鳥のメニューのなかに皮があれば必ず頼む。ここのは、たっぷり厚手の皮を丁寧に畳んで一粒にしている。この粒が窮屈なくらい贅沢にぎゅうぎゅうに串に打たれているのだ。醤油らしさと加えた甘味とが、それぞれに主張しあう強目のタレがからみ、上手に皮の角に焼き目をつけながら焼き上げてある。妙手である。串の半分くらい、思い切ってごそっと口へ運ぶ。皮のすきまから透き通った品の良い、されどコクのある脂がしみだす。タレがからみ、一噛みごとに元気になっていく気がする。
こちの刺身は、薄く上品に仕上げられていて、むっちりした身と爽やかなコクが良い。目利きであることの証左とも呼ぶべき刺身だった。
気がつけばカウンターは二巡目の客でいっぱいになっている。手元を見ると、赤いウィンナーと目玉焼きがあって、条件反射のごとく、
「アレください」
とお願いしていた。くわえてポテトサラダもオーダーした。ポテトサラダ探求家を名乗っている以上、そこにポテトサラダがあれば、行く。
赤ウィンナーは昭和の赤いウィンナーそのものだった。目玉焼きは普段、絶対に醤油ではなく塩胡椒かウスターソースなのだが、その夜は、なぜか醤油をかけていた。
「いいんですか?」
Mさんに言われたとき、私はすでに黄身を口に運んでいた。当たり前に旨いそれに頷き、心のなかで、私の目玉焼き人生でいつも活躍してきてくれたウスターソースに対して、こんなことは今夜だけだからと頭を下げていた。ロビンソン酒場といういつもとは違う、旅情あふれる状況だからこそ、目玉焼きに醤油をかけてしまったのである。
「これは広島で教わってきたものなんですよ」
洸介さんが運んできたポテトサラダは、サイノメに切ったジャガイモのサラダだった。そのほかの具はハム、ニンジンや胡瓜で全体に黒胡椒が散りばめられている。ポテトサラダには、大別してマッシュ状のクリームタイプと、ゴロゴロと形の残った二つのテクスチャーがある。前者がジャガイモに備わる味わいを濃厚に感じさせる一方、後者は歯触りの心地良さをより強調したものだ。サイノメのジャガイモはそのどちらも一緒に楽しませてくれる。粗挽きの胡椒のパツパツとはじけるような辛味がいいリズムを刻むなか、具がアクセントをうむ。相手を選ばない試合巧者のポテサラだった。
さて、これまでにどれだけの酒を呑んだのだろうか。気づけば、ビールも日本酒も焼酎も呑んでいる。そして10品以上を平らげている。お腹はいっぱい。しかし、私は、最初にお品書きを見たときから、ずっと、今日の最後はこれで仕上げると決めていた品があった。私はおずおずとMさんとAくんにむかって言った。
「あの、今日なんですけど、中華そばをシメにいただこうと思うんですが」
まだ食うのか、という白眼視には耐える覚悟ができていたが、
「あ、じゃぼくも」「私も」
と二人も注文するというではないか。仲間とは尊い。大食漢は人類の敵との誹りをうけるかと思っていたのに、二人も食べると聞いた途端、強気になって「大盛り」という文字すら脳裏をよぎった。
洸介さんがうやうやしく運んでくれた、湯気がたちのぼる鉢の中身は完璧だった。透明な醤油スープにちぢれ麺。薄桃色のチャーシュー。カイワレ大根に細かく刻んだネギ。そそり立つ海苔が3枚。そして仕上げに渦巻きのなると。私が居酒屋のシメのラーメンに望むエレメントのすべてがおさめられている。麺は喉ごしよく、からんだスープは香ばしい醤油の香り。塩味もほどよく、そこにネギがからむと爽快感もある。チャーシューはあっさりした仕上がりでスープのなかをくぐらせていただくと、チャーシューの汁気の旨さが倍増する。そして、なると。すでに目が回りそうなくらい飲んで食っているところに、このクルクル意匠は心地よい酩酊感を増幅する。酔っ払いは誰もがトンボになるのである。とまれ、ほんのり甘いなるとの、シャキッとしているようでモッチリした歯触りは、この一杯、ラーメンというミクロコスモスの掉尾を飾るにふさわしかった。
あー、うまかった!ごちそうさまでした!
……誕生会のあとの子どものように、満腹感と去り難さがないまぜになった心もちだった。そして肉体的には、満腹過ぎて動けなかった。しばし腹をさする。あらためて店のなかを見回すと野球にまつわるポスターや写真などがいっぱいだ。ぼうっと眺めていると秀之さんが言った。
「野球をやれ、なんて一度も言ってないんですよ。だけど、三人の子どもが結局みんな野球をやったんですよね」
お子さんは二人の息子にお嬢さんがお一人。全員、野球をやっていたのだそうだ。これなら、なおさら、大音声の挨拶や符牒のやりとりのように「可視化された気合い」が見られそうだが、秀之さんも洸介さんも、爽やかで気負いのない雰囲気で、店全体がのびのびとした空気に満ちている。この雰囲気、他の中央線の駅とちょっと違って控えめな阿佐ヶ谷の気風と符合する。優しい街の優しいロビンソン酒場。こなれない 太鼓腹をさすりながら、いつもは歩いて帰るロビンソン酒場探訪ながら、今夜ばかりは、優しさに甘えてタクシーもいいかもしれない、などと考えながら、仲間二人を見たら、やはり腹をさすっていた。
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加藤ジャンプ
かとう・じゃんぷ 文筆家、イラストレーター。コの字酒場探検家、ポテトサラダ探求家、南蛮漬け愛好家。割烹着研究家。1971年東京生まれ、横浜と東南アジア育ち。一橋大学法学部卒業。出版社勤務をへて独立。酒や食はじめ、スポーツ、社会問題まで幅広くエッセーやルポを執筆している。またイラストレーションは、企業のイメージキャラクターなどになっている。著書に『コの字酒場はワンダーランド』(六耀社)など。テレビ東京系『二軒目どうする?』にも出演中。また、原作を書いた漫画『今夜はコの字で』(集英社インターナショナル)はドラマ化された。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 加藤ジャンプ
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かとう・じゃんぷ 文筆家、イラストレーター。コの字酒場探検家、ポテトサラダ探求家、南蛮漬け愛好家。割烹着研究家。1971年東京生まれ、横浜と東南アジア育ち。一橋大学法学部卒業。出版社勤務をへて独立。酒や食はじめ、スポーツ、社会問題まで幅広くエッセーやルポを執筆している。またイラストレーションは、企業のイメージキャラクターなどになっている。著書に『コの字酒場はワンダーランド』(六耀社)など。テレビ東京系『二軒目どうする?』にも出演中。また、原作を書いた漫画『今夜はコの字で』(集英社インターナショナル)はドラマ化された。
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