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チャーリーさんのタコスの味――ある沖縄史

前回までのあらすじ) 「チャーリー」こと勝田直志さんは、コザの有名なタコス専門店の創業者。奄美の喜界島出身で、沖縄戦の生き残りでもある。1950年からコザの八重島でレストランを営み、1970年、ゲート通り近くに店を移転させた。

コザ暴動の夜が明けて、焼き討ちにされた車の傍に立つ米兵。

 コザ暴動は忘年会のせいだ、と不条理文学ふうに言えるかもしれない。時は1970年12月、日付が20日の日曜日に変わったばかりだった。
 当時の沖縄には、怒りと不安が膨れ上がっていた。
 前年7月に美里村(現・沖縄市)の知花弾薬庫で見つかった多量の毒ガスの撤去が実現しないまま年が暮れようとしていた。同じ美里村で5月には、米兵による女子高生刺傷事件が起きる。数年来、米兵による凶悪犯罪(殺人・強盗・婦女暴行・窃盗)は毎年1000件を超えていた。さらに、米兵関連の交通事故も年間3000件以上。それらはすべてMP(米軍憲兵)が処理して、軍事裁判の内容は沖縄側に公開すらされず、しばしば無罪に終わった。
 9月、糸満町(現・糸満市)で50代の主婦が飲酒運転の米兵に轢殺された。その判決が出たのが12月18日で、またも加害者は無罪となった。『沖縄タイムス』紙によれば、米兵本人と妻さえ驚いた様子だったという。人々の怒りは沸騰した。特に沖縄南部の人たちは、付近に米軍基地がない糸満でも理不尽な事故が起きたことに衝撃を受け、激しい基地反対闘争が盛り上がり始めていた。
 コザ暴動の最初のきっかけは、小さな交通事故だ。
 当時の新聞と『米国が見たコザ暴動』(沖縄市役所、1999年発行)から、事件の経過を見てみよう。
 午前1時頃、24号線(現・国道330号線)京都ホテル前で、アメリカ軍人が忘年会帰りの軍雇用員をはねた。怪我そのものは全治10日程度の膝の打撲だが、5台のMPカーと1台の琉球警察パトカーが駆けつけて現場検証と事情聴取をおこなううち、やじ馬が集まり始めた。
 誰もが2日前の無罪判決を想起した。そして、「これは第2の糸満事件だ」「また無罪にするのか」「米兵を縛り首にしろ」「民警が裁けなければ、我々が裁く。我々が法律だ」などと騒ぎだした。米軍側の記録には、やじ馬が口々に「米兵を殺せ」と叫んだ、と記されている。
 現場は、嘉手納基地の第2ゲートから伸びるゲート通りに近く、日本人向け歓楽街「中の町」も近い。前日19日(土)、毒ガス移送について復帰協(沖縄県祖国復帰協議会)主催の県民集会が美里で行われ、組合関係の参加者が大勢、中の町で打ち上げをしていた。土曜の夜とあって、忘年会も多かった。
 事故が起きた1時過ぎは、ちょうど飲み屋が閉店になって人が出てくる時間帯だ。出来上がった酔客が周辺に大勢いた。
 2時過ぎ、500人ほど集まった群衆の目前で、第2の事故が起こる。通りかかった外国人車両に、数人が「アメリカ人の車だ。殺せ」と突進。運転手が避けようとして沖縄人の乗用車に追突した(被害の程度は双方とも5ドル程度)。たちまち群衆は車を囲み、アメリカ人運転手を車外に引きずり出そうと車をゆすり、人の頭ほどのブロックを投げつけた。フロントガラスが割れ、運転手は首を切って出血。さらに後部の窓ガラスも割られ、中から女性の悲鳴が聞こえた。
 警官隊が阻止しようとしても収まらず、午前2時半、駆けつけた米軍の憲兵隊が空へ向けて威嚇発砲した。群衆が一瞬ひるんだ隙にMPと警察が怪我人たちを保護して現場を離脱しようとした。群衆は投石しながら後を追い、この時点で完全に収拾がつかなくなった。
 「コザ暴動で最初に石を投げたのは自分だ、と自慢する人は何人もいるんですよね」と、以前、コザ暴動の聞き取りをする人から聞いたことがある。
 いつ、誰が始めたか分からないほどに、あちこちで投石が始まった。敷石を剥がして投げる者、飲み屋に走って空き瓶を取ってくる者、ガソリンスタンドで火炎瓶を作り始める者もあった。騒ぎを聞いて、みるみる人が集まった。
 外国人所有車は黄色のナンバープレートで一目瞭然だ。群衆は駐車中の外人車両を次々と横転させては火を放った。警察が要請した消防車は、群衆に阻止されて現場に辿り着けない。大通りは火の海になったという。少人数の警官では手に負えない事態となり、2時51分、全警察官に非常招集がかかった。
 午前4時の時点での群衆はおよそ4000人という説も、見物人を合わせると1万人いたという説もある。群衆は第1事故現場を境に、ゲート通り方面と島袋や諸見の方面との二手に分かれて、「ヤンキー・ゴーホーム」「沖縄人をこれ以上ばかにするな」のシュプレヒコールを叫びながら進んだ。
 ゲート通りに進んだ群衆(琉球警察発表:200人、米軍発表:500人)は嘉手納基地入口の軍雇用事務所の建物を襲って炎上させ、基地内になだれ込んだ。周辺の車を横転させては燃やし、ゲートから約300メートル進んで、ミドルスクール3棟8教室を焼き払った。米軍は消防車からの放水で対抗し、午前5時頃、沖縄人の保安警備隊20人を使って群衆をゲートから押し出した。
 一方、島袋方面へ向かった群衆は、憲兵隊に投石しつつ外人ナンバーの車を焼き払いながら前進し、中の町と諸見の派出所にまで投石して電話線を切った。待ち構えていた憲兵隊は高等弁務官の許可を得て催涙ガスを8つ発射し、一帯はガスやタイヤの焼ける臭いが充満した。
 全警察官の非常招集に応え、4時半頃から、嘉手納、普天間、石川、那覇などから続々と警官隊が到着。夜が明けた午前7時半ごろ、ようやく騒ぎは収まったが、夕方まで火はくすぶりつづけた。
 この騒動を見た経験を、腹話術師の「いっこく堂」が書いている。

 当時、いっこく堂(本名:玉城一石)は小学1年生で中の町に住んでいた。ちょうど1970年の春、両親がゲートの近くで「サンドウイッチショップたまき」という食堂を開いたばかりだった。米兵が大勢やってきて、バーやクラブへの出前注文も多く、店は繁盛していた。

その日の朝、まだ、ねむっていたぼくを、兄があわてておこしました。
「いっこく! 大変だ! 戦争がはじまったよ!」
 その声で、ぼくはとびおきました。そして、何が何だかさっぱりわからないまま、服を着かえると、兄といっしょに、そとへ出ました。(中略)
 ぼくと兄は、嘉手納基地のゲート(出入り口)を目ざして走りました。ゲートの前には、すでに、おおぜいの人が集まっており、みな、口ぐちに何かをさけんでいました。そればかりか、ゲートを背に立っている、アメリカ軍の兵士に向かって、石や、あきびんを投げつけているのです。
 いつも、サンドウイッチショップたまきにきてくれる、やさしいアメリカ軍の兵士たちに、沖縄の人たちが、怒りをあらわにしている…。それ自体、ぼくには信じられないことでした。(いっこく堂『ぼくは、いつでもぼくだった。』

 事件発生後すぐに米軍はコンディショングリーン(米兵の外出禁止)を敷いた。完全な外出禁止は5日間続き、クリスマス前の時期に街から米兵が消えた。米軍相手の業者やその従業員は途方に暮れた。軍作業員も突然の解雇がつづき、「明日への不安で町全体が殺気立ってきた」と市長だった大山朝常は回想する。市長の責任が追及されて、暴漢に襲われ脅迫されるようになったという。
 コザ商工会議所の調べでは、5日間の外出禁止令による市内各企業の損失は一日平均20万から25万ドルにのぼり、計100万ドルを超えると算定された。
 クリスマスイブの24日午後、ようやく昼間だけの外出が許されたが、夜間外出禁止は続いた。いっこく堂の両親が営む小さな食堂にとっても、暴動の影響は致命的なものだった。

 アメリカ軍の兵士たちは、それ以来、基地のそとを出歩かなくなりました。いつまた、沖縄の人におそわれるかもしれない、と思ったからです。
 そのため、サンドウイッチショップたまきには、お客さんがこなくなりました。
 ほかの、お酒を飲む店にも、お客さんがこないので、出前の注文もへっていきました。一日、お店を開けていても、近くに住む沖縄の人が、何人か食べにきてくれるていどです。
 父と母は、サンドウイッチショップたまきを、やめることにしました。
 お店をはじめるとき、銀行などからお金を借りていたので、あとには、借金が残りました。(同)

 事件を報じた21日付の『琉球新報』は、「起こるべくして起こった」と見出しを掲げた。事件の目撃者には「せいせいした」と語る人も多い。
 私に話してくれた人も、「美しい」と見たそうだ。黄ナンバーの車と格闘する人を、何百、何千もの群衆が手拍子で応援する。車がひっくり返って火の手が上がるたび、歓声と拍手が起こり、指笛が鳴ってカチャーシー(祝いの踊り)の輪が広がったそうだ。「抗米の火祭り」のようで痛快だった、と。
 「暴動」ではなく統制が取れていた、とも言われる。計画も指導者もないのに、周辺店舗の破壊や略奪はなく、死者も出なかった。同じ米兵でも黒人への暴行は避けられた。それで、コザ暴動を抵抗運動の模範と捉える人もいる。
 騒動で炎上した車は82台(米軍発表)。怪我人は、MPを含む外人10数人、警察官5人、民間人10数人で、いずれも軽傷だった。
 逮捕者は合計21人(米軍憲兵隊に19人、空軍憲兵隊に1名、コザ警察署に1名)。身元の内訳を見ると、軍雇用員が4名いるが、大半は普通の会社員や従業員のようだ。なぜか高校生もいる。結局、10人が起訴され、1975年6月、4被告全員(1人は死亡、3人は所在不明、2人は別容疑で刑が確定)に執行猶予付きの有罪判決が下った。
 アメリカ側は事態を深刻に受け止めた。英文の「毎日デイリーニューズ」は、交通事故は「沖縄住民の間にくすぶっていた反米感情」に火をつけたと報じ、「内乱」とまで呼んだ。国防総省諜報報告書の承認官は、「反米感情の自然発生的かつ非計画的な爆発に思える」とコメントし、「大多数の沖縄人は暴力行為に参加していないが、群衆の行為を非難していない」現状を重く見た。そして同じような騒動が発生しうることを恐れた。
 再発を懸念したのは、日本側も同じだった。
 この1年半後、沖縄が本土復帰した当日の朝刊に、大規模な恩赦がさらりと報じられている。「犯罪の継続問題」と呼ばれ、「アメリカ軍人軍属に対する日本(沖縄)人の犯罪は復帰の時点でそれを無効にする」という内容を含んでいる。法案は復帰前日(1972年5月14日)に閣議で承認され、復帰当日、発表された。なぜ国会での質疑応答もなく、事前公開がなかったのか。
 第3次佐藤内閣の沖縄担当大臣(総理府総務長官)を務めた山中貞則は、後年、沖縄の保守系ローカル論壇誌『沖縄世論』(1991年・春季号)のインタビューで、ざっくばらんに当時のことを回想している。

 そこ(国会)では、この問題に関する質問はたとえ野党と言えども「質問するな」と言って協力させましたよ。それが公にでもなれば大変な騒ぎです。
「イヨーシ、アメリカ人はいくら殴っても蹴っ飛ばしても火を付けても何をしても復帰の日にはそれが無罪になる。」そうと思ったら、あのコザ騒動どころではない。
 沖縄県全土が大動乱になることは明らかです。

 コザ暴動は沖縄史の画期となる大事件だったのは確かだ。勝田さんにとって、どうだったろう。当時の勝田さんの店は現場に近かったはずだ。
 期待しながら尋ねてみたが、勝田さんにはまったく記憶も関心もないらしかった。「店はゲート通りの近くでしたが、家は八重島のままでしたからね。その時間は家で寝てました。関係ないですよ」と淡々としたものだった。
 そして、やや考えた後、「でも、まぁ、あの事件の後から、米軍はちょっとおとなしくなりよったかもしれませんね」と少し笑った。

ゲート通りの現在。通りの奥に嘉手納基地がある。筆者撮影

 コザ暴動から47年後の夏の夜、ゲート通りへ夜遊びに行ってみた。
 嘉手納基地の第2ゲートからは、半ズボン姿の米兵が友人同士で数人ずつ連れ立ってのんびり歩いてくる。ゲート通りは今でもライブハウス、バー、カフェ、ショーパブなど横文字の看板が並び、「門前町」の面影を残している。道行く人は、米兵が半分、地元の人や観光客が半分といったところだ。
 現在、米軍基地の門限は午前1時。12時半を過ぎると米兵たちは飲み残しのビールすら置いていっせいに帰って行くそうだ。門限を破ったりトラブルを起こしたりすれば、降格などの厳しいペナルティがある。意外と平和な夜の街だ。

ポールダンス、ライブハウス、クラブに並んで「かき氷」ののぼりが立つ。筆者撮影
人気のライブハウスやカフェバーの前は局地的に賑わっている。筆者撮影

 コザの夜遊びを案内してくれたサオリさんは、生粋のコザっ子。第2ゲートを出てすぐのところに実家がある。嘉手納基地の米兵と結婚し、最近までロンドンの米軍基地に住んでいたが、夫が中東勤務となったので実家に帰ってきた。
 サオリさんによれば、日本は米兵たちに大人気の勤務地だそうだ。「とにかく安全だから」だ。ロンドンでさえ、米兵は軍服での外出は禁止だ。米兵だと分かると襲われかねないという。人気の日本へ転勤するため、まず「準危険地帯」で家族帯同が許されない韓国を希望するテクニックなどもあるそうだ。
 そういえば、夜の街で軍服を着るのは2人組でパトロールするMPくらいだが、昼間の「チャーリー多幸寿(たこす)」の店内には、軍服や迷彩服の米兵グループが楽しそうにランチをしている。基地内からわざわざ車を乗り合わせて、昼食を食べに出てくるらしい。
 家族と移住できて軍服のまま歩ける沖縄は、米兵にとっても楽園だ。
 「ロンドンの基地の中のスーパーでレジの仕事をしていたら、『夫が沖縄に異動になった』と話してるお客さんがいました。友達の人が『うちのも以前、沖縄にいた。とても安全で良いところよ』と自慢していて。『そう、沖縄は良いところですよ。私の故郷なんです!』と自慢したくてうずうずしました」と、サオリさんは嬉しそうに笑った。

コザ暴動の時には火の海になったという胡屋十字路。左奥が暴動のきっかけになった事故現場のある330号線で、右に伸びるのがゲート通り。筆者撮影

続く

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

宮武実知子

みやたけみちこ 主婦・文筆業。1972年京都市生まれ。京都大学大学院博士課程単位取得退学(社会学)。日本学術振興会特別研究員(国際日本文化研究センター)などを経て、2008年沖縄移住。訳書にG・L・モッセ『英霊』などがある。「考える人」2015年夏号「ごはんが大事」特集に、本連載のベースとなった「戦後日本の縮図 タコライス」を寄稿。

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