シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
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おかぽん先生青春記

 吉祥寺の不動産屋で外国人(日本語を話さない人)に間違えられた俺だが、その後めでたく俺を住まわせてくれるアパートを見つけることができた。研究員としての勤務先は上智大学で最寄り駅は四ツ谷である。吉祥寺と四ツ谷は中央線で乗り換えなしで到着するし、終電も遅い。吉祥寺から井の頭池を渡って反対側にある井の頭5丁目のクリーニング屋の裏に、そのアパートはあった。2畳の屋根裏部屋がつき、台所付き5畳の1階からほぼ垂直のはしごで登る。寝るのは屋根裏部屋で、勉強したり食事したり楽器を弾いたりするのは1階であった。恐るべき狭さだが、居心地は良かった。
 中央線沿線にはいろいろと思い入れがあるが、思い入れの1つに、武蔵小金井に住んでいる人のことがあった。ここは女と書いてひとと読ませたいところだが、そこまで度胸はないし、演歌っぽくなるので止めておく。米国滞在中はスーザンのこともありややこしいので書かないでいたのだが、スーザンとうまく行かなくなってしばらくして、日本に一時帰国する機会があった。
 米国滞在中、俺は鳥類の聴覚をひたすら研究していた。そのような分野に明らかな名称があるわけではなかったが、動物の神経系と行動を結びつける研究として、神経行動学という分野が勃興しつつあった。そして日本で神経行動学の第一回国際会議があるというのだ。アメリカに渡って4年目だった。そろそろ里帰りしてみるのもいいだろう。
 俺がそう思っていたころ、渡りに舟のように、指導教員のボブが「日本で神経行動学の国際会議があるぞ。みんなで行こう!」と騒ぎ出した。カヌーには乗らない俺だったが、この誘いには乗ることにし、久しぶりの一時帰国をすることになったのだ。
 武蔵小金井に住んでいる人は、その会議の折知り合った女性で、ある大学の助手をしていた。国際会議で活躍する俺はそれなりの魅力があったらしく、里帰り中の短い時間に俺たちは急接近し、その後も文通や電話を続けていた。日本に帰国するに際し俺は彼女と同じ武蔵小金井に住もうと思っていた。しかし、これまで遠距離交際であったという事情もあり、まずはある程度距離をとってから交際をしようと彼女に説得されたのであった。
 何しろ国際会議で会った相手なので、俺たちの会話の多くが研究に関わる話であった。米国の恵まれた研究状況を話す俺に、彼女は日本で研究をすることの厳しさを語ったが、実際に帰国してしばらくするまで、俺は彼女の切実さを理解していなかった。ちなみに、彼我の研究環境の差は、俺が帰国した1989年に比べ、2019年現在においてよりいっそう開いている。これは研究費の問題というより、大学教員が研究に費やすことのできる時間の差が大きいと俺は思う。本題に戻る。
 そのようなことがよくあるのは知っていたが、我が身に起こるとは思わなかった。つまり、われわれは遠距離交際していたころのほうが仲良かったのである。われわれの近さは研究への意気込みにあるのであり、お互いの中にあるのではなかった。俺はそうではないつもりだったが。直接会話することにより、彼女の中に育っていたのは、俺への想いではなくアメリカへの憧憬であったのだ。一方俺は、お互いに年頃だし、俺も帰国したのだから、これから俺たちの本当の歴史が始まるのだと思っていた。
 俺が帰国してまだ半年ほどのある日、彼女は俺に宣言した。大学助手の職を辞め、米国の大学で研究員になると。そんな殺生な。俺は君のそばにいるために帰ってきたのに。だが俺はそのようにすがりつくにはまだまだ愚かさの修行が足りなかった。そのような言葉こそが彼女を呪縛し、その呪縛は彼女をして俺から遠ざけるに十分以上の重みを持つことを俺は知っていた。そのような言葉が彼女にとって最も「アンフェアー」なものであることは、彼女も俺もわかっていたのだ。
 そういうわけで、いろいろな想いを背負って帰国した俺であったが、夢のその1はここで潰えてしまった。そのような別れ話を武蔵小金井の彼女の部屋でしながら、俺は飲めない酒を飲んでいた。もともとあまり背が高くはないが、何かにつけ背伸びしがちだった俺は、彼女がワインを飲むというのに付き合ってしまっていたのだ。彼女がアメリカに行くことを止めることは出来ない。そのことを盛大に祝ってやることが「カッコイイ」ことであった。俺も彼女もそうするしかないことはわかっており、結果として俺は明らかに飲み過ぎた。しかも、泣きそうだったので、ひとりで風呂に入ることにしたのが大間違いであった。
 酒を飲み慣れない俺は知らなかったのだが、風呂に入ると酒のまわりが早くなる。風呂につかりながら、俺は四肢の動きが随意的で無くなってきたのに気がついた。ついには俺の体は極めて不自然な形に凝固した。大脳皮質運動野がアルコールで麻痺したのだ、たぶん(調べてないので知らんが)。俺はなんとか声を出し彼女を呼び、体が動かなくなったので救急車を呼んでくれるようお願いした。
 明らかに不自然な形に凝固した俺を見て、彼女は仰天し、すぐさま救急車を呼んでくれた。俺はバスタオルに巻かれた状態で彼女の部屋から運び出され、近所の住人は何事かと集まってきた。病院ではアルコールを薄める点滴をされて、数時間後に俺の凝固は解けた。このような醜態をさらした後、彼女はしばらくの間やさしくしてくれた。しかし、俺自身、彼女の心の中に居続けることは出来ないと悟っていた。まあ、この恥ずかしい出来事により、俺は彼女を諦めることができたとも言える。正確にいえば、恥ずかしかったのは彼女のほうであろう。なにしろ、バスタオル男を自分の部屋から運び出したのだから。そして、彼女は予定どおり米国に行ってしまった。あれから30年以上が経ち、彼女は米国で立派な研究者として知られている。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

岡ノ谷一夫

帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。

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