かつて246CLUBという「劇場」があった。明治神宮の表参道の入口にある駅から青山通り(国道二四六号線)沿いに、少しく東宮御所方面へと向かった右手に。平成元年の『SKIN/246MIX』や平成2年の『遊園地再生』が上演されたのを憶えている。それらはドメスティックにポップな「八〇年代演劇」とは異なる道を志していたが、ガラパゴス化しつつあった演劇はその後の三〇年に進化をとげたか?
平成の演劇史にニューウェーブを齎し、潮目を変えたと思しき一〇作品について、ここではクロノロジカルに紹介したい。
1.『少年街』(平成3年)は、維新派の松本雄吉による野外劇で、「歌わない音楽、踊らない踊り、喋らない台詞」と評されたヂャンヂャン☆オペラの第一弾だ。再開発前の汐留旧国鉄コンテナヤードに、巨大な舞台装置=廃墟の街が出現! 林田裕至の美術、内橋和久の音楽にあわせ、白塗りの少年たちの群れがラップのように韻を踏みながら鉱物的なエロスを放つ。暗黒舞踏やアングラ演劇の進化系として、八〇年代の小劇場ブームの参照項とされた『ブレードランナー』の世界観を換骨奪胎。そのスクラップやノイズを愛でる美学は、九〇年代日本のサブカルの昏さに通底してゆく。
次は、一九九四年に八〇年代的演劇との切断をシンボライズした作品を三つ。
2.『キル』(平成6年)は、「八〇年代演劇」を牽引した野田秀樹が、夢の遊眠社を解散後に英国留学し、帰国後に立ち上げたNODA・MAPの第一弾だ。モンゴルのファッションブランドをめぐる「戦争」の話ではあるが、「着る/切る/KILL/生きる」という掛詞には作者の決意表明が感じられた。現代演劇の新しい地図を描く野田秀樹は、国家の歴史性や社会の暴力性にも向き合うことで、『パンドラの鐘』や『THE BEE』を物し、井上ひさしや蜷川幸雄のスピリットを引き継いだ。
3.『東京ノート』(平成6年)は、青年団の平田オリザが確立した「現代口語演劇」の傑作。ヨーロッパの戦火を逃れるためにフェルメールの絵画が疎開してきた都内の美術館という舞台設定のもと、そのロビーに集う者たちの同時多発会話で「リアルな感覚」を浮かびあがらせた。小津安二郎の『東京物語』を参照源とし、岩松了を始祖とする「静かな演劇」の完成形だ。それは平成の演劇における言文一致運動として、演劇の現場に(平田が唱導して二〇一二年に施行された劇場法とともに)浸透した。その文学性のつよい戯曲至上主義は、新劇よりも説得力をもった。またこの作品は、フランスの演出家に見出され、欧米はじめ海外公演市場を切り拓いた功績も大きい。
4.『S/N』(平成6年)は、集団制作を旨とするダムタイプのマルチメディア・パフォーマンス作品だ。中心メンバーだった古橋悌二がエイズに感染したという衝撃的事実を作品の核に据え、ジェンダーやセクシュアリティーの問題に、果敢かつ真摯に取り組んでいた。空気を読んで沈黙せよと強いてくる「シグナル」の暴力に対して、ゲイ、セックスワーカー、聾唖、黒人……「ノイズ」として排除される少数者の声を拾いあげ解放しようとする比類なき試み。戯曲中心主義はとらず、フーコーをはじめとする膨大なテクストが、映像やダンスとともに織りなされてゆく様は圧巻。〈私は夢見る。私の性別が消えることを。〉――けっして声高になることはなく、けれどもユーモアと愛を感じさせる「静かな抵抗」の言葉にこそ、魂は揺さぶられる。
一九九五年以後の監視社会化する日本においては、三谷幸喜と松尾スズキの活躍が表裏をなした。前者の『笑の大学』は検閲を、後者の『ファンキー!』は差別を告発する喜劇で、ともに九六年の上演だった。そして、両者が二〇〇〇年に到達したのが「笑える音楽劇」の新ジャンルだ。
5.『オケピ!』(平成12年)は、オーケストラピットを舞台にしたバックステージもので、シチュエーション・コメディーを得意とする三谷幸喜の面目躍如。
6.『キレイ』(平成12年)は、少女監禁事件をもミュージカル化しうる鬼才ぶりが発揮された、ブラックな笑いを武器に戦いつづける松尾スズキの真骨頂。
二十一世紀に突入すると、二〇〇一年の9・11は演劇人の想像力を刺激したが、「動物化する若者たち」を描く作品こそが同時代のジャパンの新奇なるジャンクさを体現した。ポストドラマ演劇に舵を切った「J演劇」の台頭である。
7.『三月の5日間』(平成16年)は、「超リアル日本語演劇の旗手」とされたチェルフィッチュの岡田利規による作品。イラク反戦デモを尻目に渋谷のラブホで四泊五日する男女の話が伝聞形式で語られる。その発話にともなうノイジーな身振り手振りや「キョドり」は、コンテンポラリーダンスの文脈でも評価された。平成の演劇の潮目を変えた作品と目され、『三月の5日間』以前/以後という切れ目を演劇史に刻む。また、この作品が二〇〇七年にベルギーのクンステン・フェスティヴァル・デザールで上演されたことが突破口となり、欧州の芸術祭のプロデューサーに日本の舞台芸術への買付ルートが開かれた意義は大きい。
8.『夢の城』(平成18年)は、ポツドールの三浦大輔による無言劇。1Kアパートのベランダ越しに、言葉もなく食う・寝る・遊ぶを繰り返してはセックスにあけくれる八人の若者の「無気力さ」を、観客たちは否応なしに生態観察させられる。舞台上の周到な「同時代的記号」を読み解かされてゆくうち、涙のラストシーンに立ちあう。この作品もチェルフィッチュ同様、海外でポストドラマ演劇の潮流に棹さした。
日本の現代演劇には原爆をテーマにした名作が数多い。平成の演劇も二〇一一年の3・11以後は震災や原発の問題に素早く応答してきたが、陸続した作品から二つ。
9.『ブルーシート』(平成25年)は、東日本大震災に見舞われた福島県立いわき総合高等学校の生徒たちとのワークショップをかさね、飴屋法水が書き下ろして演出。二〇一一年には震災をテーマとする『もしイタ』や『掌』が発表され、高校演劇全国大会の賞を翌年獲得するが、高校演劇を震撼させた本作は海外からも注目を集める。
10.『山山』(平成30年)は、純粋劇作家・松原俊太郎が地点の公演に書き下ろした。チェーホフ、ベケット、イェリネクを参照しつつ、メルヴィルの『バートルビー』をモチーフに、美しかった山と汚染物質の山の狭間で暮らす家族の新たな抵抗を描く。平成最後の岸田國士戯曲賞受賞作品。
バブル景気がはじけても、平成の演劇は「高度成長」をつづけながら現在にいたる(最近では劇団☆新感線『髑髏城の七人』『メタルマクベス』のロングラン公演や、2.5次元ミュージカルの興隆に瞠目)。だが、一九九〇年に創設された助成金制度(日本芸術文化振興基金)の下支えあってこその「演劇バブル」は、永続するのか? 新国立劇場は『焼肉ドラゴン』など海外との演劇交流を国家レベルで成功させたが、二〇一一年からのTPAM(国際舞台芸術ミーティング)の成果にも期待したい。
(「新潮」2019年5月号掲載)
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和久田頼男
わくた・としお 編集者。1968年生まれ。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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わくた・としお 編集者。1968年生まれ。
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