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「答え」なんか、言えません。

2024年10月21日 「答え」なんか、言えません。

一、仕方がないんだ、人生は

著者: 南直哉

なぜこの世に生まれてきたのか? 死んだらどうなるのか?――その「答え」を知っているものなどいない。だから苦しい。だから切ない。けれど、問い続けることはできる。考え続けることはできる。
出家から40年。前著『苦しくて切ないすべての人たちへ』につづいて、「恐山の禅僧」が“生老病死”に本音で寄り添う、心の重荷を軽くする後ろ向き人生訓。

 今年、出家してから40年になった。自分の誕生日さえ忘れることがある人間なので、先だって昔の修行僧仲間からそう言われ、仰天してしまった。
 
 私の得度は1984年の1月。そのひと月後の2月末に、もう修行に出た。当時は「気候変動」だの「地球温暖化」などという言葉も無い頃で、上山した北陸の修行道場は、3メートルを超える雪の壁の中で、ほとんど何も見えなかった。しかも当日は吹雪。
 
 古参和尚(先輩の修行僧)に引き連れられて到着した山門で、朝の6時から10時過ぎころまで(だろうと思う)、立ち尽くしたまま入門の許可を待つ。実にお話にならない寒さにさらされて、履いていた草鞋(わらじ)が凍りつき、いざ入ることを許された時には、身動きできなかった。
 
 考えてみれば、ここに来るまでの道中も、時代劇じゃあるまいし、墨染衣(すみぞめごろも)、手甲、脚絆(きゃはん)網代笠(あじろがさ)に草鞋姿という姿で、新幹線や特急に乗ったのである。そのこと自体、すでに試練であった。隣の乗客に「何かの撮影ですか?」と言われた時は、つくづく情けなかったものである。

 同じ日に入門したもう一人は、某県の刑務所の刑務官を辞めて上山して来た、54歳の男であった。80を越えて、なお矍鑠(かくしゃく)と住職を務めていた父親が急逝した上、その前後に後継予定だった親類が大病してしまい、急転直下、彼にお鉢が回ってきたらしい。
 
 すでに刑務所内の幹部であり、定年も見えてきた時分である。彼は最初のうち強硬に後継を拒否したのだが、檀家は無論、再三再四に及ぶ周囲の懇請黙しがたく、ついに折れて、修行を決意したわけであった。

 いささか訳ありの経歴を持つ二人だったからでもあるまいが、我々は入門直後から、徹底的に指導された(つまり、しごかれた)。
 普通の修行僧は午前3時半起床・午後9時就寝だが、そもそも新参の見習い修行僧(「暫到和尚(ざんとうおしょう)」、と言う)は、2時前には起きて準備しないと間に合わない。そこから夜の11時近くまで、雪崩のような先輩の怒声と叱責を浴びながら、必死で基礎訓練を受けるのである。

 ようやく1日のメニューを終え、青息吐息で寝床に潜り込み、疲れ過ぎて冴え切った眼を、無理やり瞑って寝ようと焦ると、今度は隣から変な唸り声が聞こえる。

 ただでさえ少ない睡眠時間である。「このヤロー…!」と思って見ると、なんと、隣の元刑務官が泣いているのである。
「ひでえ…ここはひでえ…、もう無理だあ」
 
 それでもまあ、自分の布団の中で呻いているならまだしも、彼は泣きながら私の方に移動してくるのである!

「ジキサイさん、ここはつれえ…ひでえ…」
 私は半分彼にのしかかり、口を塞がんばかりにして言った、
「やめて下さいよっ! 聞かれたら大事になるじゃないですかっ!!」
 道場では、坐禅するところ、食事するところ、寝る場所、トイレと浴場は、沈黙が絶対条件であり、ここで話し声でも聞こえようなら、当事者はただではすまない。
 
 ところが、それでも元刑務官は「ひでえ…ひでえ…」を止めない。
「そんなにひどいと思うんですか?」
 さすがの私もつい訊いてみると、彼は涙と鼻水と皺にまみれた顔で言った、
「そうだあ…、ここはひでえ…、刑務所よりひでえ…」
「えっ、そうなんですか!?」
「そうだあ、刑務所だったら、肉も食えるし昼寝もできる」
 えっ、じゃ、ナニか、オレ、いま刑務所より「ひでえ」所にいるのか?…愕然、であった。

 その後も物覚えと要領の悪い私たちは、ずいぶん苦労したが、翌年彼は丸1年の修行を終えて、めでたく実家の寺に帰り、私はその数年後、「ダース・ベイダー」と呼ばれるようになった。先のことはわからぬものである。

 ちなみに、この入門の年、彼とは秋の一時期、所属の部署が同じだったことがある。そこは宗派の檀信徒が先祖供養を申し込むところで、我々は依頼された供養の法要を行っていた。

 法要はそれほど大掛かりなものではなかったが、部署の責任者たる老師を導師として、10名ほどの修行僧がいて、木魚など鳴らし物を担当したり、その他様々な役目を務めた。

 困ったのは、部署の責任者で、導師役たるこの老師が、しばしば無断で、突然いなくなってしまうことであった。これは我々にとっては大変な迷惑で、特に修行僧のリーダーに当たる古参和尚は、代役の導師を他の部署の老師に頼んで、何とか引き受けてもらわねばならず、これが彼の苦労の種だったのである。

 そもそも、各部署の老師も暇ではないのだから、そこへいきなり導師の依頼が来れば、良い顔はしない。そこのところを、毎度ほとんど「拝み倒して」、リーダーは代役を調達しなければならないのだ。これが度重なれば、「参った」となるのは当然である。

 いよいよ困り果てていた頃合いに、ちょうど修行僧の人事異動(「転役」と言っていた)があり、例の54歳元刑務官が配属されてきた。これを見た途端、リーダーは大声で叫んだ、
「やった! これだ! もう大丈夫だ!!」

 この日以後、リーダーは、鐘を鳴らしたり木魚を叩くなど、「シモジモ」のする法要の役目を、彼に一切させなかった。その代わり、導師の発声と所作を、毎日の練習で徹底的に叩き込んだのである。

「導師デビュー」の日、我々は固唾をのんで彼を見守ったが、地グロの顔が明らかに青ざめつつも、練習の成果か、法要は思った以上の出来で終了した。

「やればできるじゃないか!」
 リーダーは大喜びである。これでいくら老師がいなくなっても、もう困ることはない。それどころか、老師が消えるたびに代行したので、いかに彼が不器用とはいえ、次第に導師役が板に付いてきて、3か月を過ぎた頃には、供養の施主から「ありがたい法要をしていただき、感謝いたします」という礼状が来るまでになった。

 明くる年の春、あの厳冬の2月を過ぎ、桜のつぼみが色づきだした頃、彼は山を下りた。その後の消息はあまり聞こえてこなかったが、6、7年ほど経ったある日、偶然私は彼の訃報を知らされた。いくらなんでも、まだ60を過ぎて間もないだろうに。

 その後仄かに聞こえてきたのは、彼が住職を継いでから亡くなるまでの、日々の様子の一端である。
 檀家さんからは、「方丈さん(住職のこと)のお経はありがたい」と、よく言われていたそうである。
 近隣の住職仲間からは、「1年の修行にしては、よく衣が身についている(僧侶の立ち居振る舞いが立派だ、ということ)」と、褒められていたらしい。まさか入門1年目から導師の訓練をしていたとは、まさにお釈迦様でも気が付くまい。

 彼とはもう一度会って、あの「ひでえ」夜のことを笑い話にしたかったが、今はそれもかなわない。ただ、私には思うことがある。

 彼は、仏道に志高く、いわば「衆生済度(しゅじょうさいど)」に意気軒高として、僧侶となり、修行に来たわけではなかったろう。住職が亡くなり、後継者が倒れ、実に「仕方なく(・・・・)」入門したのだ。

 確かにそうではあるが、その仕方なく歩き始めた道は、彼を後悔にしか、不幸にしか、導かなかったろうか。私は違うと思う。

 世の中には「仕方がない」のひと言で全てを呑み込んで、しなければならない決断がある。私には、その決断が尊く思えるのだ。意志と夢と希望に満ち溢れた決断ができれば、それは誠に結構だ。

 だがしかし、退路を断たれ、最早この道しか残されていないことを覚悟した者の決断は、おそらく強い。その決断が開く道は、その者の精進を裏切らないだろう。
 布団で泣いていた元刑務官のその後は、「仕方のない」人生の渋い味わいを私に教えてくれるものだった。「刑務官老師」の慈訓である。

 

*次回は、11月4日月曜日に更新の予定です。

南直哉『苦しくて切ないすべての人たちへ

2024/4/17

公式HPはこちら

この世には、自分の力ではどうしようもないことがある。そのことに苦しみ切なく感じても、「生きているだけで大仕事」と思ってやり過ごせばいい―。「仕方なく、適当に」「万事を休息せよ」「死んだ後のことは放っておけ」など、心の重荷を軽くする後ろ向き人生訓。死者を求め辺境の霊場を訪れる人々、逸話だらけの修行時代、よい宗教とわるい宗教、親ガチャや苦の正体―恐山の禅僧が“生老病死”に本音で寄り添う。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

南直哉

禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)などがある。

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