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ロビンソン酒場漂流記

2022年4月25日 ロビンソン酒場漂流記

第5夜 絶対に囲みたい場所がある

小田急線 鶴川駅徒歩35分 「炭火焼 暖炉」

著者: 加藤ジャンプ

イラスト+写真:加藤ジャンプ(特記した写真を除く)

 長の無沙汰、大変失礼しました。

 先日、久しぶりに会った酒場の大将から

 「ジャンプさん、ロビンソン酒場に行ったきり戻って来ないっすね」

 と言われた。もはや、改題して『帰ってきたロビンソン酒場漂流記』でもいいかもしれない。で、恥ずかしながら帰ってきました、どこの駅からも繁華街からも遠い酒場を訪れる、酔狂ルポ、再開します。よろしくお願いいたします。

 せっかくだから、ものすごく遠い店に行くことに決めた。

  ちなみに、このルポはいつもアポイントなどは取らずにいきなり行くことにしている。漂流者が絶海で突然見つけた緑豊かな島のように、店なんて無さそうなところにあって私たちを潤してくれるからロビンソン酒場なのである。だから出かけて行って店がやっていない、ということは何度もあった。これをロビンソン・リスクと呼ぶ。遠ければ遠いほど、ロビンソン・リスクのダメージは大きい。今回は駅から3キロ近く登り坂である。しくじったときの疲労は想像するだに怖かった。

  でも、行かなくちゃ。

 なぜ、そうまでしてロビンソン酒場を目指すのか。その理由を今回のロビンソン酒場で再認識することになる――

 3月某日。空にはスギ花粉が舞い、花粉症の人にとって散歩がつらい季節である。私が降り立ったのは小田急小田原線鶴川駅である。鶴川駅があるのは、町田市能ヶ谷、東京の西部、多摩エリアに位置する。小田急線の普通電車には停車駅の数によって各駅停車から快速急行まで6種類がある。鶴川駅には、そのうち一番鈍い各駅停車と二番目に鈍い準急だけが停車する。そのせいなのか、便利なところだが、駅周りも過度な開発がされていない。駅は地上駅で単式と島式が一つずつある。高架や地下の駅が増えてきたなかで、鶴川駅の雰囲気は旅情を誘う。私が保有する鉄ちゃんの成分は、時刻表が好きという程度の、きわめて微量だが、それでも鶴川駅はホームに降りただけで気分がいい。駅の訓読みは「うまや」。電車は巨大な馬なのだ。馬を地下や空中につないではいけない。だから地上駅こそ駅なのである。

 ロビンソンウォークを始める前に自動販売機でお茶を購入した。長い道のりで、途中に自販機もコンビニも無いというケースは今までにもあった。だから水分は必携なのである。

 普段はたいがい水筒持参なのだが、ロビンソン酒場の場合、歩き疲れて調子に乗って呑み過ぎて泥酔していろんなものを忘れてくるというもう一つのロビンソン・リスクがある。それでロビンソン酒場を目指すときはペットボトルのお茶か水を買っておく。

 改札をでてすぐ、駅前には三味線教室の看板がある。なぜか長歌や謡ではなく、めんそーれな感じの沖縄の三線の音が流れてくる。アバンギャルドな三味線教室なのかと思ったら、三味線教室の斜め向かいに沖縄居酒屋がある。最後に沖縄に行ったのは、いつだったろう……。コロナ禍で旅から足が遠のいて二年あまり。抑え難い感情がわきあがる。沖縄に行けないなら、今ここで泡盛でもかっくらおうーー思わず入店しそうになった。 

 改札のすぐわきに自販機はあった。もちろんミネラルウォーターや緑茶も売っている。だが、ラベルに「箱根の森から」とある。行きたい、箱根……。鶴川駅、町ぐるみで旅情を誘う。距離的には、鶴川より私の自宅のほうがよほど箱根には近いのだが、家にいてもそんなに箱根には誘われない。それなのに鶴川が箱根へと招く。

 編集者のMさんが改札に姿を現した。サングラスをかけてマスクをしている。雰囲気はちょっとした人(さら)いである。ただ持ち前の知的雰囲気のせいで職務質問はされないらしい。そんなグラサン編集者と二人連れ立って、目指したのは、串焼きの名店なのであった。

 駅を出て大通りを渡るといきなり坂道になる。鶴川は元は鶴川村といって、あの白洲次郎が古い農家を買って畑仕事をしつつ都会での激務をこなす、「カントリージェントルマン」の暮らしを営んでいた土地である。今もその家『武相荘』は残っていて一般公開されている。大学生のときはじめて『武相荘』を訪れて以来、何度も訪れた。そのたびに

 「こんなふうに暮らしたいなあ」

 と強く思いつつ、畑仕事もせず集合住宅に暮らしている。

 その店を知ったのは、今から十数年前のことである。私の通っていた大学は国立にあって、横浜の実家から通うには電車の便があまりよくなかった。首都圏は東西の鉄路は充実しているが、南北に縦断するのは案外不便である。それで時々、車で大学に行ったりしていた。もう30年も前の話だからセキュリティもいい加減で、大学構内のなんだかよくわからないスペースに密かに車を停めたりしていた。すみませんでした。

 その時、いつも鶴川のあたりを車で通過していた。

 卒業してからは、もちろん構内に駐車はしていないが、春の桜や秋の銀杏を見に、時々大学を訪れてきた。そういう時も、やっぱり鶴川を経由するルートだった。いつも同じ通りを走り、必ずといっていいほど、ひっかかる三叉路の信号がある。フリッパーズ・ギターの二人が通っていた和光学園のすぐ近くにある三叉路なので、いつもそこを通り過ぎるときは『Groove tube』を歌う。そのすぐ近くに一軒の居酒屋がある日突然出現したのだった。

 そんな話をしながらMさんと坂道をのぼる。Mさんが、時々サングラスをはずして遠い目をする。おそらく

 「もう、そろそろかな」

 と思っていたのだろうが、全然、手前なのであった。甘いのである。

 途中、猫の集団に迎えられたり、誰もいない豆腐屋があったり(夕方なのですっかり片付いていてショーケースは空で、店の人も見当たらないが、西陽がさしこむ作業場があまりに美しく、きっと大層旨い豆腐を売っているのだと断定している)、梅の畑があったりするが、一向に着かない。途中から巨大な団地のなかに入りこむ。

 鶴川には巨大な団地がある。町田市内にはいくつもの団地がある。そのなかで最初に開発が始まったのが鶴川だった。賃貸と分譲あわせて3000戸近くあるという。小学校のクラスはだいたい1クラス30人編成だから、この団地がすべて独居だとしても、小学校のクラス100クラス分あるということである。巨大団地である。それでも今のマンションなどとはちがって、土地に余裕をもたせて建てられているから、全体に公園のなかに集合住宅が並んで建っているような印象をうける。ただ、どこの団地も直面している問題だが、このあたりも過疎には悩まされているという。たしかに、おそらく昭和の終わりくらいまでは夕方まで子どもたちの声がそこかしこで聴こえていたであろう、団地の芝生エリアや通路にはあまり人影がない。人が見当たらない団地にはSFの趣きがある。なぜだろう。じっと立って建物を見渡すと、どこかの部屋の窓でシュッとカーテンが閉まる。そこから物語が始まる、そんな感じがする。

 もともとこの団地は、熱い自治の魂があったらしく、歴史を紐解くと「自主バス運行」とか「無店舗生活協同組合の結成」といった取り組みが見られる。過疎化を解消すべく活性化プロジェクトも進んでいるが、おそらく、こうした「郊外」の問題はここだけの問題ではなく、この国全体で取り組まなくてはいけないことである。

 しばらくすると大通りに出る。これは鶴川いちょう通りといって見事な銀杏並木である。秋になると、よく国立の大学通りの銀杏の紅葉を見に行くが、正直、ここでも十分銀杏は堪能できるので、ここで十分かな、とよく思う……

 そんな話をしつつ歩を進めていたが、だんだん私もMさんも口数が少なくなり、最終的に無言で歩くようになっていた。頭のなかで『雪の進軍』のメロディが流れる。そして、あと目的地まで200メートルあまり、というところに酒屋があったもので、つい缶ビールを買って飲んでしまった。ほんとうは、3キロ近く歩いてカラカラになったノドを、目的地のロビンソン酒場での一杯目で潤すつもりだった。だが中年は誘惑に弱い。酒屋で飲んだスーパードライはまたたくまに空になった。ちなみに店のなかには「ちょい飲みコーナー」という看板があって椅子まで用意されていたので、私たちはうまうまとその誘いにのったのだが、店のおじさんに

 「けっこう、ここで飲まれる方いるんですか?」

 と尋ねると、おじさんはすげなく

 「ほとんどいないよ」

 とやや厳しい口調でこたえた。なんだか申し訳なくなり、すぐに店を出た。

 酒屋を出てもまだまだ屋並はつづいた。なかには空き家めいた家もある。養子になって相続したいような素敵な家もたくさんあるなあ、などとMさんと二人、いささか不謹慎な発言をしながら歩く。

 で、突然、ほんとうに突然、小さな看板が現れた。老眼になったせいで、最近は遠くが以前よりよく見える。

 看板の文字が読めた。

 『暖炉』

 と書いてある。疲れ切った私たちの心を暖めてくれる暖炉。

 建物自体は、両隣の家と似ていて一見すると普通の住宅なのだが一階部分に大きなガラス窓と格子戸がある。暖簾と入り口の脇にはオートバイ。NSRというホンダのバイクで、急に『TECH21』という整髪料を思い出した(その整髪料がスポンサーしていたのはヤマハだったけど)。もう売ってないのだろうか。

 軒先には消毒薬が用意されている。シュッと手にふきかけもみこんで、暖簾をくぐった。

 「いらっしゃいませ」

 店主とスタッフの気持ちいい挨拶。このご時世だから無闇に大声ではない。ほどよいボリュームが心地いいし、安心できる。奥に長い店内は左手にカウンター右手に小上がりがある。見るとコタツである。

 「換気を充分にすると寒いので、コタツにしたんです」

 店主の桑原友春さんが教えてくれた。コロナ禍になるまでは、ただの座卓がおかれていたのだそうだ。コタツ布団のなかにおずおずと足を入れる。忘れていた。コタツがこんなに気持ちが良かったなんて。あんまり気持ちよくて、眠くなりそうだった。

 早くキツケの一杯をやらないと。中年の体は約3キロの登り坂ですっかり疲れ果てている。その気になったらいつでも眠れる状態なのである。

 カウンターの上にはずらりとメニュー板が並ぶ。豚や牛のホルモンの部位や野菜。いい香りがする。炭火だ。

 「ガスでも電気でも焼いたことないんです」

 と桑原さんは笑う。その笑顔に自信があふれていて、こちらもヨシッとなる。

 なにしろ3キロ近い坂道を歩いてきた中年である。空腹は尋常ではない。そこへ炭火の香りが漂うと、全身が食欲になった。卓上のメモに客が自ら書き込むスタイル。メモの紙面は見る見るうちにいっぱいになった。

 はじめにセリのおひたしとタラの芽の天ぷらが登場。全身食欲と威勢のいいことを言いながらまずは野菜で始めるところが訳知りの中年呑兵衛なのである。血糖値を上げ過ぎない。大事、大事。で、これが、すばらしい。セリの香りが、歩き疲れて敏感になっている鼻腔をすーっとくすぐり、体のなかを新緑の風が通り抜けるのである。酢醤油もいい具合。で、タラの芽である。雲母みたいな薄ごろもから透けて見える、春の命のカタマリは、苦味と甘味がコロモのほどよい甘さとあいまって、口中を幸福感で一杯にしてくれる。そこへ冷やを流し込む。食道に春の味覚の川が流れる。脳内BGMは滝廉太郎である。たまらん。

 そこへやってきたのが焼き物たちである。塩とタレは大将にまかせたのだが、そのチョイス流石としか言いようがない出来栄えであった。

 レバーは軽く塩。カラシとニンニク味噌が添えてある。ちょこっとだけつけて頬張る。レバー嫌いがレバー好きになる、というやつである。エッジはしっかりたっている。されどあくまで柔らかくしあげてあって、水気は飛んでいるのにしっとりと肉汁があふれる。このバランス。炭火だから焦げ目までいい香りで、これがアクセントにもなっている。

 つくねは、瓢箪型。卵黄を添えてある。タレがまた、甘さもしっかりあるのに、これが舌にベタつく甘味ではなく後味がすっきりしている。タレも卵黄も味は強いのに、ぎゅっと身のつまった食感のつくねの、タネの粒々にからみあって肉の旨さをしっかり引き出している。これは妙技だ。

 ホルモンのシロもタレでいただいた。噛むととろけるようでいて、しっかりとシロ一粒一粒の輪郭を炭火でかたどるように焼いてある。だから口にいれると、閉じ込められたシロの旨みが殻を破るようにあふれてくる。この楽しさ。たまらん。

 なにしろ鮮度がいい。臭みなんてどこにもないし、色艶が鮮やか。ビューティフル・ホルモン。聞くと

 「近くの店何軒かで、芝浦の市場から共同で仕入れているんです」

 という。だから、焼き物以外、たとえば、上タン刺しなんて、火が通っているのに、ちょっと上等な白桃のような薄桃色をしている。タンらしい歯応えがありながら一噛みで崩れる。そのすきまから、小脂の良い甘味があふれてくる。2キロくらい食えそうである。

 しかし、この場所でこのクオリティを維持するというのは簡単なことではあるまい。すると桑原さん

 「修行した店も駅から30分離れていたんです」

  と、ロビンソン酒場界のジェダイみたいなことをあっさり言うのである。

 界隈には団地もあるし、ある意味では大きなマーケットがひかえている場所なのだが、お客さんは、近所の人ばかりではないらしい。旨いしお値段も控えめなうえに広くて居心地のいい店内だから、ちょっと遠くからもやって来て、常連になるのである。

 もちろんこの店が愛される理由はそればかりではない。

 桑原さんが、酒場で働くようになったのは16歳、高校生のアルバイトだった。調布を中心に展開するホルモン焼き屋グループの一軒でキャリアを始め、20歳のとき社員になった。途中弁当屋などでも修行したそうだが、基本的にはこの店で働き続けた。平成17年に独立開業したのが、この『暖炉』。大家さんは、修行していた店の常連だった。

 「炭火と素材と付加価値ですかね。味はもちろんですが、ここに来る意味、ということを意識はしてます。まあ、自分が最高のツマミになるのが理想なんですけど」

 と笑う桑原さん。いや、もうなってます。なにしろ、その笑顔を見ると、楽しくなって思わずぐいぐい飲んでしまうのである。桑原マジック。

 店名の由来は「暖炉のように皆が囲める場所にしたい」という願いがこめられている。実は、この後、私は2回もこの店を訪れてしまった。一体、何キロ歩いたのだろうか。とまれ「皆が囲める場所」というより客からしたら「囲みたい場所」になっている。

 で、その夜、したたか食って飲んで帰りも歩いて行こうとすると

 「タクシーがいいんじゃないでしょうか」

 と桑原さんがちょっと申し訳なさそうに声をかけてくれた。そんなとき、強面の店主だったり、ツンデレの女将さんだったら、思わずイキって 

 「いやあ、歩いて帰るぜい」

 なんて中年のプライドを炸裂させてしまうが、桑原さんの笑顔は、すっとこちらの緊張の糸をほどくのである。素直にしたがって、タクシーに乗った。1時間近くかかったあの道のりが、10分もかからなかった。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

加藤ジャンプ

かとう・じゃんぷ 文筆家、イラストレーター。コの字酒場探検家、ポテトサラダ探求家、南蛮漬け愛好家。割烹着研究家。1971年東京生まれ、横浜と東南アジア育ち。一橋大学法学部卒業。出版社勤務をへて独立。酒や食はじめ、スポーツ、社会問題まで幅広くエッセーやルポを執筆している。またイラストレーションは、企業のイメージキャラクターなどになっている。著書に『コの字酒場はワンダーランド』(六耀社)など。テレビ東京系『二軒目どうする?』にも出演中。また、原作を書いた漫画『今夜はコの字で』(集英社インターナショナル)はドラマ化された。

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