待ち合わせたのは蒲田駅だった。
蒲田駅にはJRと京急の二つの駅がある。いつも使うのはJRのほうで、こちらは『砂の器』でいきなり死体が発見される操車場がある。そのせいで、小学生の頃からこのあたりに来るとあの菅野光亮と芥川也寸志の主題曲が脳内再生される。実際の蒲田駅の発着メロディーは『蒲田行進曲』だが、やっぱり蒲田は『宿命』なのである。
一方で京急蒲田駅の発着メロディーはというと『夢で逢えたら』である。ラッツ&スターのメンバー何人かの出身地が蒲田で、それゆえだという。だが、いつ蒲田駅でその曲を聴いても、私の脳内に流れるのは吉田美奈子か大瀧詠一のソレなのであった。
その日、編集者のMさんと待ち合わせたのは京急のほうだった。京急蒲田駅は10年前に、縦に長い駅に生まれ変わった。上り線と下り線が違う階に発着する。改札とはエスカレーターで行き来する、けっこう未来的な構造である。改札でMさんを待っている間、私の頭のなかでは、ずっと吉田美奈子の『夢で逢えたら』がリピートしていた。そこへMさんがひょっこり現れた。いつもどおりのサングラス。脳内のBGMはいきなりラッツ&スターに変わった。私はというと、Mさんに向かってラッツの桑マン氏よろしく、かけていたメガネを上下に動かして見せたが気づいてもらえなかった。
向かうのは、この京急蒲田駅の東側、吞川沿いをひたすら河口へと向かっていたところにある居酒屋である。ものすごく遠い、ロビンソン酒場である。念のため言うと、ロビンソン酒場とは、駅からも繁華街からも遠い場所にぽつんと在るのに長く愛されつづけている酒場のことである。不便なところにあって愛され続けるには理由があって、そこに物語がいつもある。
駅のすぐ前にあるのは国道15号線いわゆる第一京浜である。これを横切ると橋があって夫婦橋という。橋がかかっているのは呑川。「呑み」と「夫婦」とは、なにやら意味深というか胡乱な感じも孕んだコンビネーションである。しかし内情は、もとは近くに2本の橋がかかっていて、これを女夫橋と呼んでいたのが由来らしい。呑川はというと、かつて牛が落ちては川の水をしたたか飲んだから、なんてことが所以らしく、酒とはあまり関係がないようである。
駅を背に、川を右手に歩く。つまり左岸である。左手には住宅や工場が林立する細い道である。ほどなくして気づいたのは、やたらにY字路に遭遇することだった。横尾忠則さんがY字路をモチーフにした絵画をたくさん描いているが、あのY字路である。ただ、片側が川なので、そこには、あまり"運命の分かれ道"みたいな雰囲気はない。そして、もう一つ気づいたことは、この細い、人が二、三人並んだら一杯な道を、けっこうなスピードを出した自転車が行き交うことだった。川ぞいは土地が平たい。だから自転車移動が便利なのであろう。
川の中には、係留されたプレジャーボートみたいな船やハシケみたいなものがけっこう浮かんでいる。街中を流れる「川」というより「河」を見ると、なぜか思い出すのは映画『泥の河』である。Mさんと映画の話でひとしきり盛り上がる。宮本輝の原作は大阪が舞台だけど小栗康平の映画は名古屋でロケしたんだぜ、とか、映画おじさんのマウント合戦は楽しい。初めて見たのは中学生の頃だが、この映画を見てしまったときから胃のなかに澱みたいなものがたまっていて、いまだに取り去れていない気がする。ちなみに、先日受診した胃カメラでは、私の胃にはピロリ野郎も不在でそこそこ健康であった。
そんなことを話しているうちに、意外にも早く国道131号線・産業道路が川を横切るように姿を現す。高架にはなっていないので、一旦川の右岸へ行かないと道路を横断できない。右岸へ行くときやっぱりおじさん二人は
「さらばリヴ・ゴーシュ」
となけなしのフランス語知識を使いながら渡るのであった。そして大通りを横断しまた、元の左岸へともどり、再び歩き始めたが、この頃から、やはりMさんの口数が極端に減ってくる。疲れている。
「あとどのくらいかの?」
公家みたいな聞き方だと思ったが、これは単なる関西弁だった。ともあれ、甘い。まだまだ道程の半分も来ていない。
とはいえ、川沿いの景色、それも下流のそれはあまり変わり映えしない。ちょっと飽きたな、と思っていると突然川沿いの道が通行止めになり、一本中に入った道を歩くことになった。
川沿いは思いのほか住宅が多かった。しかし、こちらは工場がすくなくない。大田区は中小企業がひしめき、かつてはこの国の製造業をささえる場所だった。ピーク時には9000を超える町工場がひしめきあっていた。今でも、大幅に減少したとはいえ4000社以上が操業している。だから、"このあたりは「準工業地区」ゆえに騒音などもあるがマンションや住宅に入居する人はそのあたり一つご協力お願いします"という内容の看板がそこかしこに貼られている。
「すぐギャラリーにできそうな建物だらけですなあ」
と歩き疲れて無口になっていたMさんが久しぶりに口を開いた。Mさんは長いこと『芸術新潮』の編集者もやっていた人なので、そのあたりのセンサーは敏感なのである。たしかに、この界隈のSOHOめいた雰囲気からして、ポテンシャルは実はとても高そうに見える。操業しているかどうかすら曖昧な、大きな鉄扉の工場なんて、そのままカフェでもギャラリーでも、あまり手を加えずに格好いいのが出来そうである。ちなみに、ここら辺りは、大森南という地名である。だからといって大森駅から歩くと4キロ以上ある。梅屋敷駅や大森町駅は、京急蒲田駅よりは少し近いようだが大差はない。
だいぶ歩いた。空を見上げれば飛行機が飛んでいる。羽田空港は目と鼻の先である。飛行機に乗りたい……。歩き疲れて何でもいいから乗り物に乗りたい欲求に駆られた。それにしても、工場と家はあるが、飲食店が全然無い。
疲れきったおじさん二人が、町工場のおしゃれ加減につられて二言三言会話して後、再び無口になって数分。突然、赤提灯が姿を現した。店前にジャージ姿の中学生がたむろしていたのだが、おじさん二人が店に近づくにつれ、パラパラと解散していった。なんだか申し訳ない。この店に来るのは三度目だが、どういうわけかいつも中学生がいて、毎度、近づくと蜘蛛の子を散らすように去っていく。いつも心中で謝罪している。ごめんなさい。
店の名は『うおふじ』という。看板には大きなカツオが跳ねている。魚屋みたいである。
夕方五時。口開けとほぼ同時に暖簾をくぐる。L型のカウンターがあってその奥には小上がりがある。女将さんは、開店準備も一段落してカウンターのスツールに腰をおろしたところだったが、すぐに立ち上がってマスク越しにもわかる笑顔とお辞儀で迎えてくれた。カウンターの中には大将がいて、こちらもお辞儀。コンビネーションが美しい。並行線上に並ぶ二人の連続お辞儀はバレーボールのBクイックに似ていた。
カウンターに陣取る。メニューは印刷された定番と壁のホワイトボードに手描きされた不定期メニューとあわせると優に三十はこえる。魚も豊富である。
生ビールと、ホワイトボードにあるイワシといわしのなめろう焼きを注文した。中年は認知症対策に常にDHA補給に勤しみがちである。
カウンターのなかにいる大将は手際がいい。あっという間に二品が目の前に出てきた。
見惚れるようなイワシである。一切れ一切れがパンパンに張りがあり、薄い桃いろの身にはキラキラと朝露のごとく輝く小脂がのっている。生姜醤油でパクリとやる。新鮮そのものぱつぱつに太った身からじわりと旨い脂があふれる。旨い。気分は大海原を泳ぐマグロ。
ホタテの皿にのせられていたのはなめろうだった。なめろうはミンチにした魚を味噌やネギや生姜といった薬味などと混ぜたものだ。生でも焼いてもいける。ここのは焼いたもので、目の前にあるだけで香ばしさにくらくらした。たまらず日本酒をお願いする。女将さんがメニューにはのっていない、吉乃川があると教えてくれたのでそれをお願いした。
まずはなめろうを一口。生でいける鮮度のいわしだから元々臭みなんてないので、薬味の香の立ち方もひとしおである。塩加減も、闇雲に酒を進ませるほどではなく、いわし第一の塩梅。これはホタテの皿五枚分くらい軽い。これと吉乃川のさらさらっとした口当たりが好適。
「いまのイワシはね、卵産んで痩せたのがもどってきた頃なんだよね」
そう聞いて二人して
「熟女か」
と呟いていた。二人揃って地獄に落ちそうな気がした。
青魚が旨い酒場は他のアテも皆いける、とかつて、前歯が二本無いおじさんに鶴見の飲み屋で教えられた。うおふじは、まさにその通りであった。
イワシにつづいて、なすのミートソースチーズ焼き、さしみ三点盛、ミラノ風ピッツァ、サバの塩焼き、あじフライ、卵焼きなどをいただいていった。300mlの吉乃川が次々に空いていく。
どれも装いは華美なところはまったくない。実家の手料理、あるいは民宿の料理。そんな気軽であたたかさがある。されど、味はもちろんプロのそれである。
あじフライは油が新しいのが一口でわかるほどカリッと旨いし、卵焼きはお猪口を離せない絶妙な舌触りと味わい。さしみ三点盛の赤身も海辺の宿屋で食べているみたいなニクイ旨さだし、サバの塩焼きなんてガッと焼いた皮目も香ばしく冷たい酒にぴったりだった。
野菜のつまみも上出来で、とくになすのミートソースチーズ焼きがやけに立派なナスなうえに旨いので聞いてみると
「このサイズが無いときはやらないの。材料がいまひとつのときはどれも無理してやらないのよ」
と女将さんが教えてくれた。材料が無いときは遮二無二つまみをでっちあげたりしない、真面目なお店なのである。実際、女将さんも大将も、ぐいぐい来るタイプではない。必要以上にはアレコレおしゃべりしないが、ちゃんと客との会話もさらさらっとしながら手元は動きっぱなし。働き者なのである。佇まいも仕入れも実直。しかし、どうしてこの場所で、と思うだろうが、実はこの店はかつて鮮魚店だった。魚屋としての創業は1951年。その前年に生まれた大将、潮田守隆さんは、ずっとこの街の姿を見続けてきた。そして、小中学校の同級生だった女将さん、万里子さんと結婚し、店を続けていた。だが、1999年、五十歳を前に一念発起して居酒屋に商売替えをした。
この決断、先見性があった。
「このあたりも昔は結構な商店街だったんですよ。三つの商店会があったんだけど、もう皆なくなっちゃって」
2000年。大型店が小さな店を圧迫しないように規制していた大店法が無くなり、大規模小売店舗立地法が施行された。大型スーパーが出店すると、小さな店はどんどん消えていった。うおふじは、その荒波がやって来る直前に業態を変えた。元々魚屋だから仕入れのルートがしっかりしていた。それにくわえて、長い間魚屋として鍛えた目利きである。別段料理屋で修行したわけではないが、魚屋で鍛えた包丁さばきは誰より巧い。店はすぐに繁盛した。
「最初の五年なんて忙しくて三人店員さんを雇ってました」
この広さで三人増えたら、身動きが取れない気がしたが、よく考えてみたら、その場所から動けないほどに忙しかったのだろう。以来20年以上店はつづき、御常連たちに愛されている。
なんだか居心地がよくてもっといたかったが、吉乃川が首まで一杯につまってタプンタプンになってしまったのでお暇した。万里子さんは、元は神谷町の出身だそうで、言葉にちょっと勢いがあって格好いい。帰り際、万里子さんが
「また、どうぞ」
と言ってくれたのがやけに嬉しかった。
帰りは、腹ごなしに遠回りした。河口まで行って、首都高に架かるいわゆる「ブツ切り橋」を見たのである。近くで見るとイデオンの腕みたいな感じである。ちなみに可動と言いながら24年動いておらず、まったく使われていない橋である。オブジェである。その期間は、うおふじが、強かに生き抜いてきた時代とほとんど重なっている。市民は必死に頑張ってきた。お上が作った巨大な橋は「いつか使う可能性がある」ということでそのままになっている。もやもやしてもう一杯やりたくなったが自重して帰った。
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加藤ジャンプ
かとう・じゃんぷ 文筆家、イラストレーター。コの字酒場探検家、ポテトサラダ探求家、南蛮漬け愛好家。割烹着研究家。1971年東京生まれ、横浜と東南アジア育ち。一橋大学法学部卒業。出版社勤務をへて独立。酒や食はじめ、スポーツ、社会問題まで幅広くエッセーやルポを執筆している。またイラストレーションは、企業のイメージキャラクターなどになっている。著書に『コの字酒場はワンダーランド』(六耀社)など。テレビ東京系『二軒目どうする?』にも出演中。また、原作を書いた漫画『今夜はコの字で』(集英社インターナショナル)はドラマ化された。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 加藤ジャンプ
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かとう・じゃんぷ 文筆家、イラストレーター。コの字酒場探検家、ポテトサラダ探求家、南蛮漬け愛好家。割烹着研究家。1971年東京生まれ、横浜と東南アジア育ち。一橋大学法学部卒業。出版社勤務をへて独立。酒や食はじめ、スポーツ、社会問題まで幅広くエッセーやルポを執筆している。またイラストレーションは、企業のイメージキャラクターなどになっている。著書に『コの字酒場はワンダーランド』(六耀社)など。テレビ東京系『二軒目どうする?』にも出演中。また、原作を書いた漫画『今夜はコの字で』(集英社インターナショナル)はドラマ化された。
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