茶の湯は奇妙な世界です。洛中の職人街で堺の商人が完成させた文化は、公家ではなく武士の教養として発達しながら、いつしか京の根幹をなす美学になりました。娯楽でありつつ哲学であり、禅宗では修行の一部となっています。贅に頼ることを戒めながら現代でも一億円を超す茶陶〝名物〟が当たり前のように取引される。
様々な作家が様々にその世界を解き明かそうと試み、それぞれは素晴らしい研究、観察、分析でありながら俯瞰すると全貌の一部をトーチで照射しているに過ぎない。茶道とは一筋の道に見えてパラレルワールドが何層にも重なり交錯する迷路のようなものなのかもしれません。だから矛盾が矛盾のままに息づくことができる。茶の湯の愉悦とは第七官界彷徨なのです。
わたしは茶道を習ったことがありません。なぜならもの書きだからです。師について教えを乞うと、まず大前提としてそれを肯定せねばなりません。でなければなにも修得できない。しかしニュートラルな視点を失ってしまうと結局はトーチで照らす一部分からしか茶の世界を垣間見るしかなくなってしまう気がするのです。
「習わはらな解らへんこともありますよー」
と、やんわり諭してくれたのは武者小路千家家元後嗣の千宗屋くんでした。月光に照らされた御所の白砂の一本道――自転車が繰り返し走行することで砂利が払われて歩きやすくなった筋――を一緒に辿りながらの会話の中で、ふと滲み出るようだった言葉には説得力がありました。あのときは心が揺れた。
けれどやはりトーチは持たずにおこうと決心させてくれたのも彼ゆえでした。2014年のヴェネチア・ビエンナーレで杉本博司が制作したガラスの茶室「聞鳥庵」での茶事はアート史上の事件といっても差し支えないインスタレーションでしたが、茶の湯という観点からだけ見ると甚だ異端といえます。
五感を総動員し、さらにはその上位の感覚をも働かせて、その空間が孕むすべての矛盾を茶を喫むという行為に収斂させるのが茶事です。けれどビエンナーレのそれは視覚以外のすべてを遮断して、ひたすら観ることだけに奉仕させられた茶でした。あたかも神事のごとし。あの一服は茶聖・利休への供物ではないか。実際、のちにそのとき客として招かれたひとりは、それは茶席にあるべき緊張とは異質だったと笑っていました。そして「緊張に伴う緩和もなかった」と。
なら、いいじゃん! 視覚だけで完成する茶事が存在するなら、いや、茶道の本流にある人間によって存在してしまった以上、味覚だけに集約された茶があってもいいじゃんか! わたしにとって茶とは、まず美味しいものなのだから。美味しさを極めよう。わたしの好きな人たちと分かち合おう。それも茶の湯だ。その世界の複雑性はわたしのような捉え方をも受容してくれるだろう。
わたしはこの20年、ほぼ毎日お薄をいただいてます。眠る、食べる、仕事する。お手洗いを使い、シャワーを浴びる。少しでも活字を読み、僅かでも散歩する。茶を点てるのはそれらと同じ生活の一部。費やすのはせいぜい30分。無理はだめ。続かなくなるから。
その日その日の気分や時節に合わせてささやかな設えを調え、寒いときは熱く、暑いときは温く、とても暑いときは氷に注いで、きゅっと啜ってきゅっと一日の要所を締める。そして美味しいと思う。それだけ。茶の湯と称せるようなものではない。
けれどそんな喫茶でもお薄としての美味しさはなんら損なわれることはないのです。
制約との闘い、簡素化と美意識のせめぎあいは果てしがありません。道具類もどこまで省略するのか、見立てていいのか、遊ぶのか、いろいろと悩ましい。煎じ詰めればお抹茶とお湯のほかは茶筅さえあればいいのですが、いただくからには己の目に美しくあらねばならない。
たとえば茶入。いくつか棗も揃えていますが、おもに活躍してくれているのは老舗茶筒舗「開化堂」さんの茶筒40g缶です。のちに件のビエンナーレにも素材違いが選ばれていたと聞き我が意を得たり。
開化堂さんとは、もはや遠い親戚扱いしていただいてるくらい長いお付き合いです。若旦那の八木隆裕くんが毎年イギリスでお仕事をされることもあって、西の涯でも極東でも腹を割った話ができる仲になりました。なので「いよいよカフェが開店します。入江さん、なんかイベントやりません?」と訊かれたときも遠慮なく「ほな一日店長やらしてよ」とお願いしたのでした。
2016年の春にオープンした「Kaikado Café」は約90年前の市電の車庫兼事務所をリノベーションした店です。隆裕くんはここをカフェとしてだけでなく〝職人技〟をキーワードに枠に捉われないワークショップや情報発信を提供してゆける基地にしたいと考えていました。その第一弾みたいなもんですから責任は重大。けど、わたしはひとつどうしても試してみたいことがありました。
そうです。わたしが目指す「ただ美味しい」だけの茶のお披露目。自分のアイデアがどれだけ一般の人たちに通じるのか見てみたかった。カフェの空間はそのトライアルに最適であるように思えました。
その中核に据えたのが桂「中村軒」さんのお菓子。わたしは手を合わせて当日のための甘いものを御つくりおきしてもらうことにしたのです。
開化堂同様こちらの老舗和菓子舗とも、もうほんとうに昔からのご縁。優しくしていただいているのをいいことに、いろいろ我儘をお願いしています。実は御つくりおきも二度目。拙著『テ・鉄輪』の表紙のために物語のイメージでオリジナル菓子を特製してもらったのです。ちょっと変わった材料を使用されたのでもうありませんが、しばらくは店頭に並んで人気もあったそうです。
若旦那の中村亮太くんは、わりとなんでも面白がってくれる人なので今回も打てば響くでわたしの変てこなコンセプトを理解してくれました。お抹茶、お薄のためのお菓子であること。しかし本格的な茶事に用いられる形式を踏襲している必要はなく、むしろそこから離れた親しみやすさがあってほしい。そしてなにより手掴みで食べられること……というのがリクエストでした。
わたしは料理の最も旨い食べ方は手掴みだと思っています。むろん全部が全部じゃないですが。けれど、おむすびが美味しいのも、寿司が美味しいのも直に指で触れるからだと断言できます。骨付の肉料理を注文したら最後は野蛮人と化すべき。星の並んだ店でも然り。料理人はそれを望んでいますから。実際はやったことないけれど、きっとカレーだって現地式で喰うほうが美味しいに決まっていると信じています。
ならば和菓子だって、そういうものがあってもいい。お茶の味覚に意識を集中させて普段よりもより深い味わいに気づいていただくには、むしろそれがベストだろうと考えました。むろん亮太くんならばわたしの言葉に耳を傾けてくれるという確信があったればこそですが。
それにしても中村軒というのは不思議な店だなあと思います。名代は「麦代餅」という、畑作の間食として考案されたどっしりと腹もちのいいつぶ餡を挟んだ餅菓子。名前が示すように菓子作りの原料となる小麦と物々交換されてきた歴史があります。そんな鄙びた菓子舗が、亮太くんのお父様である当代の御主人の研鑽で押しも押されもせぬ人気店になりました。
茶道の心得をお持ちの御主人。むしろ茶道から離れた昔ながらの素朴な味を愛し、同時に新たな和菓子の地平線をめざす亮太くんの才気。そこに卓越した粋人である女将さんの民藝的精神が加わって見事な調和をみせるのが中村軒さんです。
完成してきたお菓子が想像を超えて素晴らしかったのはいうまでもありません。外見は〝おまん〟です。薯蕷饅頭のかたち。赤米でほんのりピンクに上気しています。割るとなかみは豌豆の鶯餡。桜が終わり、初夏へと向かう季節にもぴったり。お懐紙のうえにこれを鎮座させ、うえから和三盆をふりかけて完成。当然、指は粉で汚れますが、それをぺろっとする悦びは、泡だて器についた生クリームを舐める悦楽にも似て、まさに手掴みならではの美味を表現し尽くしていました。
開店間もないカフェの前評判もあって、さしたる告知もしていなかったのにイベントはほんとうにたくさんのお客さんに恵まれました。中村軒さんのお菓子は好評さくさく。手掴みにクレームがつくこともなく、みなさん素人店主のお点前を「ただ美味しい」という考え方ごと愉しんでくださっていたようです。
事件が起こったのは昼下がりでした。「いや、ご馳走さんでしたー」という声に顔をあげると。千宗屋くん……。人生であんなに冷や汗をかいたことはありません。たぶん武者小路千家の若様に手掴みでお菓子を食べさせた男はさほど存在していないでしょう。来たときは何も告げず、食べ終わり喫み終わったあとに、しれっと挨拶してくるなんて。京都人、怖いわー。
それでもそこはかつて知ったる仲。すぐに雑談が弾みだしたのは慶賀なことと申せましょう。「日常のお茶として美味しかった」という賛辞も賜りました。しかし、ではお返しに、と同じ抹茶、同じ茶筅、同じ湯、同じ茶碗で点ててくれた一服の風味絶佳をわたしは忘れますまい。お菓子の後味までもが水際だちました。わたしの踏みだした道程もなかなか遠いようです。
「入江さんで千円なら僕やったら幾ら貰えるやろ」。にんまり最上等の褒め言葉を残し彼は帰っていきました。
(写真すべて筆者撮影)
関連サイト
中村軒
開化堂
Kaikado Café
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入江敦彦
いりえあつひこ 1961年京都市西陣生まれ。多摩美術大学染織デザイン科卒業。ロンドン在住。作家、エッセイスト。主な著書に、生粋の京都人の視点で都の深層を描く『京都人だけが知っている』、『イケズの構造』『怖いこわい京都』『イケズ花咲く古典文学』や小説『京都松原 テ・鉄輪』など。『秘密のロンドン』『英国のOFF』など、英国の文化に関する著作も多数。最新刊は『読む京都』。(Photo by James Beresford)
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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