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村井さんちの生活

2022年9月19日 村井さんちの生活

「わしの気持ちを考えたことがあるのか!?」と義父は叫んだ

著者: 村井理子

 夏休みが終わり、息子たちの新学期が始まった。暑く、長く、楽しい夏を経験した二人は、特に大きな問題もなく、それぞれが高校生としての生活を楽しんでいる様子だ。しかし、私は今、いまだかつて無いピンチに見舞われている。義理の両親がとんでもないことになっているのだ。それはある日突然始まった。

 今まで週二回、デイサービスに通っていた義母が連日デイサービスに通うようになって、数日経過したときのことだった。ケアマネさんに渡さなければならない資料を取りに夫の実家に立ち寄ると、義父が真っ暗なリビングの椅子に一人、座っていた。それも、ものすごい形相で。何ごとかと思ったら、めちゃくちゃ怒っているのだ。

 「またデイの人が来たんや」と、結構な剣幕だった。デイの人が毎日来るようになったのは、義母の義父に対する執着が強くなったこと、そして義父本人からの「もう無理だ」という訴えによるものだった。義父と義母を、日中数時間であっても引き離さないと、双方、倒れてしまうと判断したのだ。

「お義父さん、今週からお義母さんのデイサービスは毎日に決まったの、覚えてはります~?」と聞くと、義父は黙ってはいたが、不満そうだった。何か言いたげだし、表情が険しい。え~、毎日大変過ぎるってことだから、デイサービスの予定を変更したってのに、なに怒ってんだよ、このじいさんは!

 ここ数か月の義父の気分の落ち込みは深刻なものだった。義母の認知症の進行スピードが速く、義父はその変化を理解はしても、受け入れがたくなっていた。在宅中、義母は朝早くからひっきりなしに動きまわる。かなり多動な状態だ。目についたものすべてが義父の浮気の証拠だと思い込み、義父を責め(浮気妄想)、紙くずから衣類に至るまで自室に集めては山のように積み上げている(物取られ妄想)。記憶力は限定され、同じ言い回しも大変多い。私自身は慣れてきたとはいえ、義父にとっては朝から晩まで、その同じストーリーの繰り返しに耐えることになる。

 義母も辛いだろうが、義父もとても辛い様子だった。特に義父が気に病んでいたのは、義母が彼の容姿について言及することだった。「うちのじいさんは頭がまっ白でしわだらけ、通ってくれている看護師さん(ちなみに男性)はとてもスマートでかっこいいのに、この人ときたら!」と、義母が直球ストレートな感じで義父に言うのを、私も何度か目撃したことがある。ターゲットは義父だけではなく、その豪速球は当然私にも投げられるが、義父に比べたら幾分遠慮がある。

 私の認識が甘かったと言えばそれまでなのだが、義父が義母のそんな発言に傷ついているとはこれっぽっちも予想していなかった。相手は病気なのだから、言わせておけばいい。それにもうすぐ90歳、そんな小さなことでクヨクヨするほど未熟でもなかろう。なんなら半分仏様のようなものではないか(精神的成熟度という意味において)? そう勝手に思ってしまっていたのだが、義父は私が予想していたよりもずっと繊細だった。これが後々大事件に発展するとは思っていなかった。

 義父は義母に何か言われるたびに私に電話をかけてきた。「わしを年寄りだと言うんや」と打ち明けられれば、「まあ、普通に考えればそうですよね」とか、「わしの顔をしわだらけだと言うんや」と泣かれれば、「しわは積んだ徳の数だから!!」などと適当過ぎる答えを返していた。

 そしてとうとう義父は「もう無理や」と言った。涙を見せるようにもなった。「助けてくれ」と言って、すがるような目で夫に頼んでいた。義母が月曜日から金曜日まで、連日デイサービスに通うことになったのは、こういった背景があった。この決定に辿りつくまで、病院との折衝やケアマネさんとの話合いなど、決して平坦な道のりではなかった。義父も納得していたはずだったのだが…。実際に義母がデイサービスに通いはじめると、義父は突如として怒りの矛先をデイサービスの職員さんに向け始めた。

 「あの人たちは商売だから、うまいことを言ってあいつを無理矢理連れて行ったんや!」と猛烈に怒っているのである。いやいや、商売とかじゃないからとなだめても、聞く耳を持たない。挙げ句の果てには「わしを一人にするつもりか!? わしの気持ちを考えたことがあるのか!?」と怒鳴るではないか。呆然である。この期に及んで、わし、なのかと落胆した。義母を安全な場所で預かってもらうことで、義父は楽になれるはずだった。なによりそれを望んでいたのは義父だった。しかし、「こんなに毎日デイサービスに行くなんて聞いていない!」と、義父は真っ赤な顔で大声を出して言い、そして、「わしの気持ちを考えろ!」である。義母のQOLだって大事ではなかったのか? 

 「お義父さん、私、説明したでしょ? お義父さんが辛い、助けてくれと私たちに言ってくれたから、お義母さんを預かっていただくことにしたんですよ?」と精一杯優しく答えた。

 「それはそうだけど、たった一人でここにいたら頭がおかしくなってしまう。それに、あんなデイサービスなんて何が楽しいんや、なんの薬にもなりやしないし、認知症だって治ってないやないか!」と繰り返した。

 「わしの前では、デイなんて大嫌いだ、絶対に行かないとずっと文句を言うてるくせに、職員さんが迎えに来ると、うれしそうにほいほい出て行く。デイのほうがいいんか? わしのことはどうでもいいんか?」 

 うん、どうでもいいんじゃないかな…私の中の小さな私が答えた。

 「ここで一人残されるわしの気持ちを考えたこと、あるんか?」

 たぶんないね…小さな私は再び答えた。

 楽しむ義母を想像して腹を立てるなんて、まさか。こんな展開がやってくるとは、夢にも思っていなかった。実際に義母は、デイサービスでの時間を楽しんでいた様子だった。それは、ケアマネさんからも、デイサービスの職員さんからも聞いていた。明るく、手作業が得意な義母は、デイサービス利用者のなかでも中心的な存在で、皆から慕われているという。友達もたくさん来るし、職員さんは優しいし、自分が得意なことをたくさんやらせてもらえていることもあって、義母はやりがいを感じているらしい。家にいて、寝てばかりいる義父のことを心配し続ける日々が楽しいだろうか? 義父の浮気に疑心暗鬼になって苦しむよりは、楽しい時間を過ごした方がいい。家にいたら飲まない薬も、デイに行けば飲ませてもらえる。髪を洗って清潔にしてもらい、食事を提供してもらい、友人たちと楽しく食べることもできている。デイの方が彼女にとっていい環境なのはわかっている。ここで義父の寂しさを考慮する必要はあるだろうか? というか、義父も一緒に行けばいいじゃないか!

 「こんな生活になるとは夢にも思っていなかった。今まで一緒に苦労してきたのに、あんなわけのわからんものが大好きになって、うれしそうに通っている姿を見ると、がっくりする」と言う義父。

 楽しくデイに通ったら悪いの? 一日中、暗い部屋で過ごすよりは、友人がいっぱいいて、必要とされる場所にいる方がいいじゃない! 仕事があれば素敵じゃない。笑顔があったほうがいいじゃない。仲間と楽しく過ごしたいんですよ、彼女は! 認知症になってまで、誰かのために生きなければならないなんて地獄じゃないですか。

 「仕事を与えられるというても、家のなかは散らかり放題で、意味がない。デイサービスはもう終わらせたほうがいい」という義父には、返す言葉が見つからなかった。「とにかく、もう一週間だけ我慢してください」と伝えて実家を出た。少なくとも一週間はトライしてみて結果を出して欲しい。そうでなければ、スケジュールを組んでくれたケアマネさんに申し訳なさすぎる。

 結局義父は一週間も待てなかった。

つづく

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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