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村井さんちの生活

2022年9月28日 村井さんちの生活

夫、ついに雄たけびを上げる

著者: 村井理子

前回のあらすじ

 義母の認知症が進行し、義母の義父に対する執着が強くなったり、義父の容姿に対して攻撃的な発言を繰り返すようになったりして、義父本人から「もう無理だ」という訴えが。義父と義母を、日中数時間であっても引き離さないと、双方倒れてしまうと判断し、義母を毎日デイサービスに連れていくことに。

 しかし、義母が出て行ったあとの家で一人過ごすことになった義父は「わしの気持ちを考えろ!」と激昂し、村井さんはただ戸惑うばかり――。

デイサービスの職員さんの証言

 デイサービスへの準備と送り出しを担当してくれているヘルパーさんによると、毎朝「デイって何ですか?」と義母は確認するらしいが、顔なじみの職員さんが来てくれると、本当にうれしそうに支度をして出て行くということだった。朝起きたら職員さんが迎えに来てくれて、楽しい場所に行き、終わりの時間になれば車で家まで戻してくれる、ちょっとしたアトラクションのような認識のはずだ。義父の様子を尋ねると、少し言いにくそうに「ご機嫌が悪いときがありますし、口げんかをされているときもありますね…」と教えてくれた。

 それでも、これまで長い間、週に二回通ってもらうだけでも四苦八苦していたというのに、素直に迎えの車に乗って行ってくれるというのは奇跡のような話だった。それだけ義母の症状が進んだとも言えるのだろうが、本人が楽しいと感じ、人とのふれあいを重ねるなかで一日でも長く元気な暮らしをしてもらえればそれで100点満点だ。

 しかし、ここで問題となったのは義父だった。彼はどうしても感情が先に立ち、義母の状況に対して怒りと悲しみばかりを募らせる。挙げ句の果てにデイサービスに対して根拠のない怒りまで抱えてしまった。いくら説明しても義母の認知症や彼女の変化を受け入れられない彼に、どうにかして理解してもらおうと、私は対話を試みた。物言わぬ仏像と話しているようで苦痛だったが、ここは辛抱だとがんばった。義母は先日、レビー小体型認知症だと診断されたばかりだ。妄想や幻聴、物取られ妄想といった特徴的な症状は、見事なまでに義母の現状と合致している。ある意味、とてもわかりやすい状態だと思う。義父はそういった義母の症状のひとつひとつを、認知症になって性格が悪くなったから意地悪やわがままになったのだと捉えていた。

 しかし、実際のところは、すべては病がさせること。本人の意志や性格とは無関係と考えるべきなのだが、何度説明しても、私の目の前の仏像は理解してくれない。いや、理解してはいるけれども、どうしても許すことができないことがあると私に言う。それは、義母の「若返り」だ。

 ここのところ義母は、自分の年齢を忘れて昔話ばかりを繰り返すようになってきた。それも、十代から二十代あたりの青春の思い出を盛んに話す。たぶん、精神的にもそのあたりを彷徨っている。明るく、茶目っ気があって私はとてもいいことだと思っている。きっと彼女の人生にとって、その頃が最も輝かしく、美しい日々だったに違いない。それの何が問題なのかはわからないが、義母が気持ちを若返らせるほど、義父は怒りを募らせる。

 義父の心を最も激しく揺さぶったのは、義母が四十代の男性看護師さんに好意を抱いたことだった。とはいえ、恋愛感情といったものではなく、とても素敵な方ね、次はいつ来るのかしらと言う程度の微笑ましいものだったのだが、義母が「看護師さんは素敵なのに、家にいるのはじいさんだわ」とぽつりと言ったことがきっかけとなって、義父があろうことか看護師さんを敬遠しはじめたのだった。

 近所の美容室(義父も義母も30年来通っている)に行った義父が、店主の妻に「奥さん、なんかおかしいんとちゃいますの?」と言われたことも大きかった。「先週来てくれたときも、男の看護師さんがかっこいいとか、若くて素敵なのに、うちのじいさんときたら、よぼよぼでシワシワで嫌になってくると何度も言うんですよ。やめさせたほうがいいんちゃいますのん?」と、そう助言されたそうだ。義母が一度だけ、看護師さんのいるナースステーションに、雑談の電話をしてしまったことも義父にとっては衝撃だった。義父は大変なショックを受けていた。しかし、それを病気が進行した姿と捉えるのではなく、「恥」と捉えるとは思ってもみなかった。やがて義父は、看護師さん、ヘルパーさん、デイサービスの職員さん、そしてケアマネさんまでも敵対視するようになったようだ。

 私のところにはケアマネさんから何度か連絡が入っていた。デイサービスの職員さんに対してあまり根拠のないクレームを入れられたようですと報告を受けたときは驚いた。何を勘違いしているのか理解できないが、とにかく義父に事情を確認しなくてはならない。小学生じゃあるまいし、叱りつけることはできないが、関係のない人にまで当たり散らすのは間違っているとはっきり言うべきだと思ったからだ。

 そう思っていた矢先、今度はデイサービスの職員さんから、直接私に連絡が入った。深刻な声で「お父様が感情のコントロールが出来ない状態で、こちらの職員に対応されましたので、今日はお母様をお預かりすることはできませんでした。『俺を一人にするつもりか!』と大きな声でおっしゃって…」ということだった。デイサービスの職員さんは、実家を追われるようにして去り、困り果てて私に連絡を入れてきたというわけだ。その深刻なトーンから、義父が大いにやらかしたことはすぐにわかった。

「あの人らが勝手にかあさんを連れて行こうとしたんや」

 在宅勤務中だった夫に事情を説明した。夫は驚き、唖然としていた。「え? あの親父が?」と言っていた。私だって驚いた。あの穏やかな義父が、一体どうしてそこまで行動をエスカレートさせたのか、この時点ではまったく理解できなかった。

 私が最も理解に苦しんだのは、義父がデイサービスの職員さんに恐怖を感じさせるほど激しい対応をしたという事実だった。あのヨボヨボ(失礼)のじいさんの、どこにそんなパワーがあったのだろう? それ以上に、デイサービスの職員さんに剥き出しの怒りをぶつけるほど、彼女らが何をしたというのだろう? 業務の一環として義母を迎えに夫の実家に行っただけで、俺を一人にするつもりかと怒鳴られるいわれはないのだ。

 夫が「ちょっと電話してみようか?」と言ったが、私は「いや、いきなり襲撃や」と答えた。「考えるタイミングを与えたらあかん。すぐに行って状況を確認する。あんたも来い!」と答え、あっという間に支度を済ませて夫の実家に二人で向かった。

 到着すると、実家は静まり返っていた。中に入っていくと、急いだ様子で義母が寝室から出てきた。「いまちょうど、あなたたちの話をしていたところだったのよ…なんの話だったっけ」と言い、笑った。そして、「今日も来てくれたのね、ありがとう」と言った。服装を見ると、きれいなシャツを着ている。義母自身はデイサービスに行くつもりで支度をしていたことがわかる。化粧もしていたので、それは間違いなかった。義母は行き先がデイサービスであっても、きれいに化粧し、清潔な衣類を身につけるというスタイルを、未だ崩していない。

 私も夫も緊張していた。問題の義父の姿がまったく見えないからだった。いつもであれば私たちの乗る車のブレーキ音を聞くやいなや部屋から飛び出してくる義父が、全く姿を現さない。義母は何が起きたのか一切記憶はしていないだろう。私たちがやってきたのを素直に喜び、やかんを火にかけてお茶を出そうと準備をしはじめていた。私と夫は静かにリビングの椅子に座って義父の登場を待った。

 少しすると、義父が寝室から出てきた。真っ青な顔をし、表情も険しい。私たちが座っていたダイニングテーブルにやって来ると、自分も座って、間もなく話しはじめた。

 「あんたらが何を聞いてやってきたか知らんが、あの人らが勝手にかあさんを連れて行こうとしたんや」と義父が言った瞬間、私は思わず、「それは違うやろ!」と言いそうになった。言いそうになったのだが、「それは違う」の、「そ」のあたりを言おうとしたところで、すでに夫が「ああああああああああ!?」と怒鳴っていた。

夫、大噴火

 夫は滅多に怒らないが、一旦怒ったら大変激しい。私は夫と一度も大きな喧嘩をしたことはないが、夫と義母の喧嘩は何度か見たことがある。義母、夫ともに一歩も譲らず、流血待ったなしの戦いだったが、義父VS夫は初めての経験だった。こんなことが起きるとはと驚いた。なにせ、義父も夫も絵に描いたように穏やかな男二人なのだ。しかし、驚いたのは私だけではなかったようで、怒鳴られた義父自身も動揺し、顔が真っ赤になっていた。それでもこのとき、義父は決して譲らなかった。

 「あの人らは金儲けのために勝手にかあさんを連れて行ってるんや」と大声で言った。両手が震えていた。夫は「それは違う!」と、こちらも大声で答えた。「かあさんの介護が辛い、助けてくれって父さんが俺に言ったから、ケアマネさんに話をして、スケジュールの変更をしてもらったんやろ! 覚えてないのか?」夫も険しい顔つきになっていた。

 そう言われた義父は、その質問自体には答えずに「夫婦というものはいつも一緒にいるものや!」と言い続けた。夫婦は片時も離れず一緒にいるものや、離れるなんて間違いだ。そう繰り返す義父を見て、私はあっけにとられた。こんなに暗いおじいさんとずっと一緒にいるのは無理かもしれない! 

 夫は呆れた顔で義父を見ていた。「父さんは、なんでこんな単純なことが理解できないんや。かあさんが幸せだったらそれでいいじゃないか」

 「あんな場所に行ってもいっこうに認知症は治らん。治らんのやったら行く必要はない。治るというなら証拠を見せてくれ!」

 「治すのが目的じゃない。現状維持が目的なんや!」

 「現状維持? そんなのどうでもいい!」

 気の毒なのは義母だった。状況がまったく飲み込めず、夫と息子の口論の内容がわからず、「やめなさい…」と、力なく言うことしかできない。そのうえ、自分の目の前で認知症という言葉が飛び交っている。自分がそう言われていることは理解できる。でも、激しい口論の理由まではわからない。曖昧に笑顔を浮かべる義母を見て、私は気の毒になった。今までの義母であれば、息子である夫が義父に声を荒らげた時点で、お父さんに何を言うのだと、息子の脳天に踵を落としていたはずなのである。

 「デイの職員さんに乱暴な口のききかたをしたなんて、本当に最低や」

 「そんなことどうでもいい。夫婦は毎日一緒に過ごすと決まっている。ここに一人残されるわしの気持ちをお前は想像したことがあるのか!?」

 「そんなもの想像したことないわ! お袋がちゃんと世話してもらえて、あんたも楽だったはずやろ!」

 「あんな場所、世話なんてしてくれるものか! 下らない遊びばかりしているだけや!」

 「もういい! こんな家には二度と来るか!」

 「二度と来るな!!! デイもヘルパーもすべて辞める!」

 マンガみたいな売り言葉に買い言葉である。私は子どもの頃から男性家族同士の言い合いにはなれっこなので余裕だったが、義母は青ざめていた。「帰れ!」という義父の声を背中に浴びながら、私と夫は夫の実家を出た。

 帰りの車中、夫が言った。「たぶん親父も認知症がはじまったな」。私の意見も同じだった。とにかく緊急事態だ。あいにく週末ではあったが、ケアマネさんに連絡を入れないといけない。きっとデイサービスからはケアマネさんに直接説明はあるだろうが、私からもこちらの状況を説明する必要はあるだろう。遠慮がちにメールを送った。

 いつもお世話になっております。義父がすべてのサービスをキャンセルしたいと言いはじめました。このことについてお伝えしたいことがありますので、週明けにお電話いたします。よろしくお願いいたします。

 週明けにお電話いたしますと書いたけれど…実は週明けから東京出張が入っていた私なのだった。

(つづく)

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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