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村井さんちの生活

 義父母の介護、ここのところシビアな展開だ。

 まず、介護スケジュールが変更された。義母は平日はすべてデイサービスに通うことになった。今までデイサービスでは、昼食の提供と入浴サービスを受けていた義母だったが、自宅で夕食を食べなくなってしまったため、今月から夕食の提供もしてもらうようになったのが大きな変更点だ。それに伴い、これまで数年間通い続けていたデイサービスから、別のデイサービスの利用がはじまった。新たなデイサービスでの義母の滞在時間は九時間から十時間程度。帰宅は午後六時を過ぎる。そうなってくると当然、じわじわと心配になるのが義父の状況なのだが、案の定、義父は義母の帰りを今か今かと待つようになった。九十歳、現在も恋愛体質。

 義母が夕食の提供を受けるようになった理由は、義父の負担軽減だった。義父は真面目な性格なので、認知症患者特有の「ごはんを食べてない」という義母の訴えを正面から受けてしまう。せっせと料理を作って次々と提供するが、たぶん食べさせられすぎて満腹の義母は、一切手をつけない。それなのにひっきりなしに「食べていない」と訴える。すると義父は「さっき食べたじゃないか」、「まだ食べるのか?」、「どうしたらいいんや(泣)」といういつもの地獄のループに陥り、わが家の電話は鳴りっぱなしだった。

 「夕食も提供してもらいましょう。それが一番いいわ」と私が言うと、涙目の義父は「そうしてくれ…」と力なく言った。しかし、夕食の提供が始まってしばらくすると、義父は再び「母さんが食べない」と訴えだした。デイで夕食の提供があるというのに、義父は義母の帰りを待って、一緒に夕食を食べようとしていたというのだ。頼む、頼むよ。頼むから理解してくれと祈るような気持ちになった。

 「そりゃ食べないでしょ、デイで食べて戻ってくるんだから」と私が氷のように冷たく答えると、「でも本人が食べてないと言う」と義父は答える。だ・か・ら〜、認知症の人は食べてないって言うんですよ〜! と義父に言うと、「そのデイの夕食というのは、本当にちゃんとした夕食なのかわからない」と、想像を絶する球を返してくる。「ああいうところの食事なんて、いい加減に決まっている。そんな食事だけでは心配だ」

 なんなの一体? 意味がわからないんですけど。仕方がないから義父には「とにかく自分のごはんの心配だけしてください。お義母さんは足りてますんで!」と言うしかなかった。

 そしてつい先日のことだ。ため息をつきながらスーパーで惣菜を買い込んで、夫と一緒に実家に向かっていたときの車内でのできごとだ。夫が何気なく、「そう言えばさあ、ずっと前に、改まって親父とお袋から、同居してくれないかって頼まれたことがあったなあ〜」と言うではないか。眉間に黒部峡谷程度のシワを寄せながらiPhoneで原稿の締め切りを確認していた私は、ぴたりと動きを止めた。「同居? それっていつの話?」

 夫はこの時、何かただならぬ様子に気づいたようで、「ええっと、いつだったかなあ」と言葉を濁した。「それはかなり最近の話だよね。少なくとも十年以内の」と私が聞くと、ますます夫は焦り「覚えてない」と言った。「その同居ってさ、どういう理由で?」と私が 仕留める直前の顔で聞くと、夫は「…あれじゃないかな、宅配便の受け取りとか…」と慌てて言った。宅配便の受け取り? どういうことだ、それは。

 「宅配便の受け取りってどういうこと? つまり、雑用みたいなことで? 今までやってきた作業の多くを、私が代わりにすべてやることを考えての同居ってこと?」 ここまでくると夫はすでに仕留められているので、無言だった。私にとっては、かなり大きな衝撃だった。

 というのも、私が義父母の介護を決意した理由は、義母に対して抱いていた「シスターフッド」にあったからだ(それについては『義父母の介護』(新潮社)に詳しく綴っている)。義母が今まで私に対して同居を求めたことがなかったという事実は、彼女が私のことを尊重してくれ、嫁という立場ではなく、一人の女性として扱ってくれたに違いないという私の考えに繋がっていた。だからこそ、私も義母を同じように扱いたいと考えた。義父母の介護を引き受けた理由がそれなのだ。しかし!

 義父と義母は、夫に対して同居を求めていた。まあそれぐらい、実の親子間で話合いがもたれるなんてことはたいした問題でもないのだが、今現在、ハードな介護生活をシスターフッドという土台だけで耐え抜いていた私としては、義母、あなたもそうだったのかという気持ちが沸いてしまうのである。義父に関してはもう、諦めの境地だ。

 老後が不安だという理由で同居を求めていたのであれば、私が二人のためにさまざまな雑事や家事をこなすことを前提としていたのだろう。それとも、ただただ、息子夫婦と孫と暮らすことが夢だったのかしら? 常に厳しいことしか言わない嫁に耐えてでも、そんな生活を求めていたのか? 誰も幸せになれないのに? 

 もし同居していた場合、私のメリットはどこにあったのだろう。もちろん、仕事なんてできなかっただろうし、育児が楽になったかどうかも不明だ。なにせ、学校を転校させなければならなかっただろうし、それに伴うややこしい手続きなども、きっとすべて私に降りかかっただろう。私の得になることなんて、あまりないと思うのだけど、それはどうなんですか…?

 夫はその申し出を断ったらしい。そりゃそうでしょう。夫だって、同居の先には地獄しかないことぐらい理解するだろうから。それにしても、なんだか脱力してしまった。やっぱり私って、その程度にしか思われていなかったのかなとも考えた。

 先日、車を運転しながらふと考えた。もしかしたら、二人は不安だったのかもしれない。がむしゃらに生きてきて、ふと気づけば高齢者と呼ばれる年齢になっていた。いつの間にか身体の自由は利かず、若い頃のように体力が持つわけでもない。そんな状況になって、息子が近くに住んでいたとしたら…同居したいと思っても不思議はない。でも自分たちの安心の陰で、誰かが犠牲になるかもしれないというところまでは、気持ちが及ばなかったのだろう。

義父母の介護

2024/07/18発売

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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