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村井さんちの生活

 その日は長男が出先から電車で戻ることになっていて、夕方の少し遅い時間だったため、最寄り駅まで迎えに行った。改札の前で待っていたものの、なかなか長男が階段を降りてこない。あの子、ちゃんと戻ってきているんだろうか。携帯をチェックする。連絡は入っていない。長男が乗っているはずの電車から降りた最後の乗客らしき男性が改札を通った。長男はそれでもやってこない。

 そう言えば、小学校三年生のときにあの子とはぐれたことがあったなあと思い出した。何かの用事で長男と次男を連れて大阪に行ったときのことだった。人でごった返す大阪駅の改札で、持っていたICOCAがエラーを出してしまい、改札から出ることができなくなった長男と、私と次男がはぐれてしまったのだ。私はいつも、自分の後ろに二人がぴったりとついてくると信じ込んでいるようなところがあった。二人とも電車での移動はお手のもので、改札を通るのもいつもスムーズ。どこかへ走って行ってしまうでもなく、スタスタと機嫌良く私のあとをついてくる子たちだったので、すっかり安心して気を抜いていた。

 長男がいないことにふと気づき、あっと声を出すと、その私の動揺に気づいた次男が、同じく、あっと声を上げ、その瞬間、走り出した。長男を探しはじめたのだ。おかっぱ頭を揺らしながら、すごい勢いで人混みをすり抜けていく次男に「ちょっと待って!!」と声をかけながら、私も追いかけた。しかし、見失った。

 強い不安感が胸にじわじわと広がっていくのがわかった。必死になって、目をこらして二つのおかっぱ頭を探した。二人ともキッズ携帯を持っていたので急いで鳴らしてみたものの、まったく反応はない。ああ、どうしよう。万が一迷子になったときでも目立つように、二人とも真っ赤なTシャツにジーンズ姿だった。当時の二人は本当によく似ていて、迷子になったとしても人目に付くだろうと思ってはいたものの、狼狽(うろた)えた。しばらく探したが二人の姿は見えない。交番はどこだろう、駅の中にあるはずだと探し出したそのとき、「ママ!」という次男の少しハスキーな声が雑踏のなかから聞こえてきた。

 お揃いのTシャツ姿で、おかっぱ頭の二人が手を繋ぎながら、急いで私のところに走って戻る姿が見えた。安心して、その途端にこみ上げた怒りを抑え込んだ。なぜ勝手に走って行くの、なぜ私についてこないの。怒りと、うれしさと、悲しさがこみ上げて涙が出そうになったけれど、それを必死に抑え込んで、なんとか落ちついて声をかけた。

 「びっくりした! いなくなっちゃったかと思ったよ。やっぱり手を繋いでいこうね」

 私はそう言って、その日の用事を不安定な精神状態でなんとかこなして家に戻ったが、夜はなかなか眠りにつくことができなかった。帰りの電車のなかで、「ママとはぐれたら、キッズ携帯で絶対に電話してね。ママが先に行っちゃうようなことがあったら、大声で呼ぶんだよ」と、何度も言い聞かせたけれど、何度言ったとしても、言い足りなかった。上機嫌で私の前の席に座る二人を見ながら、安心しつつ、自分の失態を呪った。

 そんなことを思い出しながら、改札で長男を待っていた。心配しすぎなことは自分でもわかっていた。今となっては中学二年生になった長男は、ひとつひとつ苦手をクリアしようと努力し、そして自信をつけてきた。彼なりのスピードで、しっかりと成長しているのだ。それは私が誰よりわかっている。少しぐらい戻ってくるのが遅いからって、事件に巻き込まれたわけじゃあるまいし…。でも、数年前の大阪駅での不安感が蘇ってきてしまい、携帯を握りしめて、連絡を入れようかしばらく迷った。迷ったが、そのまま待つことにした。

 最後の乗客だと思っていた男性が改札を出てしばらくすると、長男が悠々と階段を降りてくる姿が目に入った。改札でやきもきしながら待つ私を見ると、右手を軽く上げて、「ただいま!」と言った。子どもらしさがすっかり薄らいだその様子に面食らってしまった。

 「どうしたの? 遅かったじゃん。心配しちゃったよ」と私が言うと、「ごめんごめん、靴の紐を結んでたんや」と長男は笑って言い、「大丈夫だよ」ともう一度右手を上げた。その上げられた右手に、私も右手を上げて、そして私たちはなんとなくハイタッチして、車に乗って一緒に家まで戻った。

 どうってことないことなのだけれど、たぶん、私はこのできごとをこの先もずっと忘れないと思う。子どもの成長は気づかぬうちにやってきて、そしてあっという間に通り過ぎていく。そのひとつひとつを、見逃さないように過ごしたいと思うきっかけとなった長男の姿だった。

義父母の介護

2024/07/18発売

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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