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村井さんちの生活

 先日、久しぶりにケアマネさんから電話がかかってきた。「理子さぁん…」と、何か事件があったことを匂わせるトーン。まずい、また何かあったのか!? と非常に焦った。

「な、な、な、何がありました!?」と慌てて聞くと、「実は御父様が…」 チッ、また義父かと思いつつ話を聞くと、義母が通うデイサービスに義父から連絡が入り、午後二時までに家に戻して欲しいと言ったのだそうだ。

 午後二時に家に戻すというだけであれば特に問題はないのだが、義母を歯科医院に連れて行くと義父が説明したらしい。その日はあいにくの大雨で、デイサービスの職員さんが心配して、ケアマネさんまで「一応、ご報告しようと思いまして…」と電話をくれたのだそうだ。

 「それでね、理子さん。歯科医院に行かれるとしても、この雨ですよね。タクシーを使ったとしても、お二人の状況を考えると、ちょっと難しいように思えるんですよ。どうしたらいいかなあと思いまして」と、遠慮しつつも大変心配そうなケアマネさん。私は彼女の話を聞きながら、「しまった、忘れてた」と考えていた。というのも、実は義父に頼まれていたのだ。

 「かあさんを歯医者に連れていってくれへんやろか。毎晩、歯が痛いって言うんや」

 私の記憶が正しければ、二度ほど頼まれていた。その都度、了解しました、予約を取っておきますねと答えたものの…実は私、この一ヶ月ぐらい、メンタルの調子が十年に一度の絶不調で、仕事は手につかないわ、家事はできないわ、とんでもないことになっていたのだ(もう回復しました)。

 気持ち的には「連れて行かなくちゃ」と思いつつ、スケジュール表を見ることもつらいような状況だった。予約して、夫に付き添いを頼めばそれでよかった。しかし、その手配すら出来なかった。受話器を持つのも嫌だという状況で、結局は放置したのだ。義父はそもそも、私に迷惑をかけるようなことはしたくないというスタンスの人だ。だから、私が動くのを待ちきれず、自分で連れて行こうと決めたのだと思う。ああ、最悪だと思った。歯科医院ぐらい連れて行ってあげればよかったと反省した。大雨のなか、90歳が83歳を連れて病院に行くなんて、想像しただけで不可能に近い。

 「大丈夫です。私が連れて行きますから」とケアマネさんに伝えた。するとケアマネさんは、ほっとした様子で、「申し訳ありませんが、よろしくお願いします」と答えた。ケアマネさんとの電話を切り、すぐに義父に連絡を入れた。

 「今日、お義母さんの歯科医院に行くんですよね。私が送って行きますから」と言うと、「いや、あんたも仕事があるやろ。迷惑はかけたくない」と言う。そちらに用事もありますから心配しないでと伝え、電話を切った。仕事を早めに終わらせなくてはならない。私はスピードを上げて翻訳をスタートさせた。すると、再びケアマネさんから電話が入った。今度は「理子さん!!」と、若干焦った様子だ。

 「御父様が激怒されているそうなんです! 先ほど訪問したヘルパーから連絡が入りまして、ケアマネに監視されている、すぐに息子夫婦に連絡を入れる、役場に苦情を申し立てるとおっしゃっているようなんです。私が歯科医院に行くことを理子さんにお伝えしたからみたいなんです。私、余計なことをしてしまったようで、すいませんでした」

 「いえいえ、余計なことだなんてとんでもない。この大雨のなか、足が不自由な義父が認知症の義母を連れて歯科医院に行くなんて無理ですよ。義父には私から話をしますので、安心してください」と伝えた。ケアマネさんは、「私たちは叱られるのも仕事だから」と言っていたが、まったく義父はなぜこんなにもケアマネさんに怒りを向けるのだろう。

 実家に到着すると、激怒しているかと思われた義父は、とても落ちついていた。むしろ、私が来たことで安心したようだった。義父本人も、大雨のなか義母を連れて病院に行くことに不安を抱えていたのだと思う。私がダイニングの椅子に座ると、待ってましたとばかりに義母の最近の様子を話しはじめた。義父曰く、やはり夕方になると幻視の症状が強く出るようで、男性が階段を上がって二階に行った、風呂場の外に人がいる、玄関から知らない男性が入って来たと毎晩のように訴えられ、「わしは心底、参ってるんや」ということだった。

 「具体的だから怖いですよね」と義父に言うと、彼は黙って頷いた。「お義父さんも大変ですね。毎日付き合うの、つらいですもんね、いくら夫婦とはいえ…」と慰める私に、義父は「実はな、この前は『早く本妻のところに戻ってくれ』と言われたんや…」と打ち明けた。私は食べていたフィレオフィッシュを吹き出しそうになった。笑いを堪えるのに必死で、鼻がピクピクしてしまった。

 しかし冷静なふりをしつつ、「でもお義父さん、それは病気が言わせてることなんですよ。わかりますよね? 健康な頃のお義母さんだったら絶対にそんなこと言わないから。だから、正面から受け止めちゃダメですよ。流したらいいんですよ、そういう言葉は。ハイハイって聞いていればいいじゃないですか。本心じゃないんだから」と私は答えた。

 すると義父は、「わし、悲しくなってしまってな。『それじゃあお前は、俺のこと、どう思ってんねん?』って聞いてみたんや」 再びフィレオフィッシュが口から出そうになった。付き合いたてのカップルじゃあるまいし、義父のこの恋愛体質が問題をややこしくしているのではないか!? 愛しているんだな、彼は。義母がどういう状態になろうとも、彼は彼女のことを愛しているのだ。だから、彼女の言動に振り回され、もう愛されていないと思って、怒りが募ってしまうのだろう。

 「お義母さんはお義父さんのこと、好きに決まってるじゃないですか。大丈夫ですよ。それから、ケアマネさんに怒らないで下さい。彼女は、お義父さんたちの生活を支えようと必死に動いてくれているんだから」と伝えた。義父は、納得したようで、「そうやな」と言っていた。

 義父と二人で義母をデイサービスまで迎えに行き、その足で歯科医院まで行った。院長によると、口内の状態が悪く、歯磨きにもそろそろ介助が必要なのではないかということだった。正直、私は愕然としてしまった。義母が出来なくなったことが、またひとつ増えていたのだ。

 待合室に戻ってきた義母は、私を見ると「あれ、なんであなたがここにいるの!?」と驚いていた。「さっき、一緒に来たじゃ~ん」と笑いながら答えたが、なんだか虚しかった。これから先、どうなるのだろう。

 会計を済ませ、エレベーターまで手を繋ぎながら歩く二人の後ろ姿を見ながら、やっぱり愛だなと、妙に納得した。90歳の義父は、必死に義母を守ろうとしている。その気持ちが空回りし、周囲に誤解されたとしても彼を責めることは間違っている。

 この日は春の大雨で、桜の花がすべて散ってしまった日だったが、介護が次のステップに進むだろうと確信した日ともなった。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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