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村井さんちの生活

2024年5月30日 村井さんちの生活

義母、はじめてのショートステイに挑戦

著者: 村井理子

 愛犬ハリーが亡くなり、もう何もかも投げ出して寝ていたいと思う日々なのだが、後期高齢者介護は私を待ってはくれない。ほぼ連日、ヘルパーステーションから、デイサービスから、特別養護老人ホームから、ケアマネさんから、次々とメールで、ケータイで、連絡が入るのだ。

 「重要事項説明書の一部が改訂になりまして、つきましてはご署名、ご捺印のうえ、一通をお戻しいただきたいのですが…」(デイサービスの職員さん)とか、「新しい介護保険証が届きますんで、ぜっっったいになくさないでくださいねッ!」、「洗濯ものがすべて消えたとヘルパーから報告があったんですけど、理子さん、知ってます?!」(ケアマネさん)とか、書類の管理や家事が苦手な私にとって、地獄のようなタスクが山積みとなっている。積まれているだけの書類もいくつかあるし、洗濯物の行方もわからない。見て見ぬふりをしている。聞かなかったことにしている。

 すべて、なかったことにしたい。私はもう、精神的にも肉体的にも崖っぷちにいる。しかし、大事なことなので繰り返しになるが、後期高齢者介護は私を待ってはくれない。仕方がないから、愛犬を亡くした喪失感を介護への闘志に変え、歯を食いしばるようにして暮らしている。

 そんななかで、ひとつ大きな進展があったので、今回はその報告をしたいと思う。そしてその大きかったはずの進展が、思いも寄らない結果に結びついたことについても書きたい。

 その大きな進展とは、義母が初めて特別養護老人ホームのショートステイ(一泊)サービスを利用したのだ。ショートステイに挑戦したほうがいいと、ずいぶん以前からケアマネさんには勧められていたものの、デイサービス利用からショートステイ利用の間には大きな川が流れていて、その川を渡るのには勇気が必要だ。

 これは、介護経験者であればわかっていただけると思うのだけれど、ショートステイは特別養護老人ホーム入所へのファーストステップのようなものだ。ぐっと距離が近くなる。ケアマネさん曰く、「ショートステイはいわば、入所の練習なんです。それから、お母様について職員のみなさんに知っていただく最高のチャンス! 行けるときは、行っておきましょう!」…ということ。

 私と夫はさっそく近隣の特別養護老人ホームの見学に行き、二箇所を選び、ケアマネさんに伝え、後日職員の皆さんと面談・契約を行い、そしてついに義母は初めてのショートステイに挑戦することになった。ここまでトントン拍子である。しかし、ショートステイに行く前に、私には大きなミッションがあった。ショートステイに持って行く荷物の準備である。

 本当に…思い出しただけで髪が真っ白になりそうだ。愛犬を失ったばかりで失意のどん底にあった私が、施設から渡された持ち物リストを握りしめ、ヨレヨレと近くのショッピングセンターに行き、義母の下着やパジャマなどを買いそろえたのだ。ここで読者の皆さんは考えるだろう。「そんなもの、夫(実の息子)に行かせろ!」と。それはわかるのだが、是非想像してほしい。女性物の下着売り場で困惑するおじさんの姿を。私は想像しただけで震えた。だから、頼むこともしなかった。私は大量の持ち物をすべて新品で揃えることにして、思い切って買い物をした。せめて、義母には快適に過ごしてほしい。恥ずかしい思いはさせたくない。山ほどの荷物を持ち帰り、施設に指示された通り、全てに名前をフルネームで記入した。保育園かよと軽く愚痴を言いながらも、丁寧に書いた。そしてショートステイ利用当日、私は笑顔で大量の荷物を抱えた義母を見送ったのだが…。

 後日、申し訳なさそうなケアマネさんから連絡が入り、「あのう、すいません…お母様なんですが、今後の利用はちょっと無理だと施設から連絡がありまして…」ということだった。まさかの一発出禁である。理由は、「徘徊があり、他の利用者への声かけが多く、不穏にさせてしまうから」というものだった。なにその、「縁起の悪い存在」みたいな理由! ちょっと笑ってしまったんだけど!

 ケアマネさん曰く、昨今、介護施設は慢性的な人手不足状態で、手のかかる利用者は断られることもあるというのだ。今回はご縁がなかったと納得するしかないだろう。

 正直なところ、私は心のなかで「ゴールが見えてきたかもしれない」と思っていた。ゴールとはつまり、義母の特別養護老人ホームへの入所だ。義母の要介護度と認知症の進行スピードを考えれば、タイミングは来ている。しかし、ショートステイへのチャレンジ一回目でつまずいてしまったことで、心にふたたび暗雲が立ちこめている。あと数週間で二箇所目の施設でのショートステイの日がやってくる。それも次は、義母と義父の二人がショートステイに挑戦するというダブルトラブル状態だ。荷物リストはナイル川のように長い(そして二人分)。義父のパンツを購入する自らの姿を想像して、なんだかすでに布団をかぶって寝たい。そしてペットロスはいつまで経っても治らない。これを崖っぷちと言わずして、何を…。どうにかして乗り越えないと、共倒れになりそうだと怯える毎日だ。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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