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村井さんちの生活

 たぶん他人からすれば些細なできごとに対して過剰に気に病むようになってしまった私は、そんな些細なできごとで誰かを傷つけることがないように、常に必要のない配慮をするようになり、その過剰な配慮が原因で、ぎくしゃくする場面が増えたように思う。いわゆる、空回りだ。

 この傾向はここ数年ではじまったというわけではなく、私が子どものときからそうで、ここ一年ぐらいで加速した。昔からどうでもいい些細なことで悩んできたが、ここ数ヶ月は本当にひどい。これを誰かに言うと「更年期」という言葉が十中八九返って来る。それは確かにそうなのかもしれない。

 先日も、やっぱりそれは更年期では? と、やんわりと指摘された。そう言われて私は「たぶんそうですね」と間髪入れずに返し、実のところ、やっぱりわかってもらえなかったとひどく落胆した。しかし、過剰な配慮がここでも働き「まさに更年期で、たぶん間違いないでしょう。それが原因で精神状態が不安定になっているのだと思います。ありがとうございました」とまで、口から出てしまう。そして「なにもそこまで卑屈にならなくても」と気に病む。踏みにじられたような、情けない気分になる。一体どうすれば心に平安は訪れるのか。

 最近では、これは私の性格だから致し方ないことだと諦める傾向にある。仕事をしている場面でこれが発揮されないように、細心の注意を払うしかない。この傾向が原因で、日常生活を送ることができないわけではない。それが唯一の救いだ。大きな誤解を与えることも、誤解されてしまうことも、今のところはない。いままで生きてきた長い年月で、そういった問題を回避する術は習得済みである。だから結局のところ、私の心の中にだけ、小さな波が立っている状態なのだ。でも、その小さな波が立つ場面が最近多く、慌ただしく、つらいのだ。

 例えば先日、こんなことがあった。行きつけのスーパーのレジの列に並んでいたときのことだ。ふと気がつくと、とある女性の立つレジの列が極端に短いことに気づいた。よくよく見ると、彼女の胸元には「研修中」の札があり、そしてしばらく観察すると、その手元がおぼつかないのである。ああ、新人さんなのねと思った。急いでいるお客さんがその列を避けたのだ。

 私は一瞬考え、そして迷うことなく彼女のレジに向かった。自分の列だけ短いと感じた彼女が、それを気に病んだらかわいそうな話だと思ったからだ。数人しか並んでいなかったから、すぐに順番は回ってきた。にこやかに私のカゴを引き取った彼女は、さっそく会計の作業に入ってくれた。私はバッグからさっとiPhoneを取り出した。レジではいつもそうするのだ。レジで会計を待つあいだ、ぼんやりしているとレジ係の人の手元を見てしまうということはないだろうか。以前、レジのアルバイトをしていた友人が「お客さんにじっと見られるとプレッシャーなんだよね」と言ったことがあり、それを聞いてからというもの、私は決してレジ係の人の手元をじっと見ないようにしているのだ。さっと取り出したiPhoneでSNSをチェックしていれば、会計なんてあっという間に終わる。それが、自分のなかで納得できる、後々気に病むことのないレジでの作法なのである。

 この日も、そろそろ終わるころでは…とiPhoneから視線をそれとなく(ここ重要)外してレジ係の女性をちらりと見ると、なんと彼女はアイスクリームを丁寧にビニール袋に詰めてくれていた。それも、フレーバーごとに分けている! えっ! フレーバーで分ける!? と、普段必要のない配慮をしまくっている自分が、新人である彼女の配慮に心のなかで若干イラついたのである。それに気づいた私は、慌ててiPhoneに視線を戻し、何ごともなかったかのようにふるまった。実際、何ごともなかったのだ。私以外の人にとっては、究極にどうでもいい場面に違いないのだ。

 ようやくすべての会計作業が終わったときのことだ。彼女の仕事を増やすことがないよう、電子マネーで華麗に決済したつもりの私にレシートを手渡しながら、彼女は「作業が遅くて申し訳ありませんでした」と言った。私はその彼女の言葉にさまざまな意味で動揺した。「そんなこと言わなくていいのですよ!」が一つ。「作業が遅いなんてことありませんよ!」がもう一つ。そして、「遅くたっていいんですよ、だってあなたは新人さんなのですから!」が、最後の一つだ。そして、彼女に気の利いた言葉をかけなくてはと焦った私は「こちらこそすいませんでした!!」と、大声で言ったのだった。彼女はビクッとしていた。

 帰りの車中でひどい気分になり、いま、こうして書いている。一週間ほど前のできごとが忘れられずに、こうして書いている。あのときの「こちらこそすいませんでした!!」のマヌケさに震える思いだ。それを大声で言われた彼女の「?」という顔を思い出すたびに、喉の奥から小さな悲鳴が出そうになる。

 いつかこのトンネルを抜け出したいと思う。いつか、心のさざ波が消え、静かな水面になると信じたい。こう書きながら、どこまで大げさなんだと自分に腹が立つと同時に、脳裏に「面倒くさい女」というテロップが流れはじめる。このテロップをなんとかして止めようともがく、2019年夏の私である。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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