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チャーリーさんのタコスの味――ある沖縄史

前回までのあらすじ)「チャーリー」こと勝田直志さんは、コザの有名なタコス専門店の創業者。沖縄戦を生き延びて奄美の喜界島に帰ることができたが、1950年、再び沖縄へ。コザのレストランで働いていた1953年末、思いがけず奄美の本土復帰が実現する。

 勝田さんが1950年に沖縄へ渡ったのは、アメリカ統治下の奄美にとって日本が「外国」だったからだ。行けるものなら10代の頃に働いていた大阪へ行きたかったかもしれない。だが、同じアメリカ統治下だからと移り住んだはずの沖縄が、今度は「外国」になった。
 それでも並外れた努力家だから、結局どこへ行っていても成功したのではないだろうか。そう言うと、勝田さんは「どうだろうね」と首をひねった。

 沖縄に来た場合は、「道」をたどってきたわけですよね。内地に行くとなると、また仕事を探したり、…いわゆるツテですよね、ああいうのが必要ですよ、世の中は。いくら自分一人でやろうとしたって、それはできない。

 奄美から続々と沖縄に渡ってきた人の多くは、親族や友人知人のつてを頼った。そして、沖縄での生活を支えたのも同郷の人たちとの連帯だった。

奄美の復帰から4年後のクリスマス、八重島で初めて構えたレストランで。従業員はみな奄美から来た人たちだった。後列右が勝田さん。勝田家より提供

 基地の街コザには各地から人が集まってきたが、沖縄の人は普通、土地を手放さない。先祖の魂は土地に還ると考えられているからだ。地主が土地を離れても、街が栄えても、店舗や家は賃貸物件や借地権付き物件が多かった。
 商売をする側は、土地という保証がない。人だけが頼りだ。コザや那覇に出る人たちは、まず同郷の人のところへ身を寄せ、しばらく仕事を手伝う。暖簾分けしてもらって独立すれば、郷里から親族や友人知人を呼びよせて手伝ってもらう。そうして互いに支え合った。
 そんなわけで、自然と同郷の人が同業に集まることになる。刺繍店には与那国の人が多く、宮古・八重山の人はバーやキャバレー、そして奄美の人はレストラン業に多かったそうだ。
 レストランのなかでもステーキハウスは特に、喜界島にルーツをもつ店が多い。コザの名店「ニューヨークレストラン」の創業者はNY帰りという経歴が有名だが、もとは喜界島の人だ。いち早くコザで始まったレストランで、修業した同郷の人たちが暖簾分けしてもらう形で自分の店を始めた。
 それを知って何気なく口にした那覇の有名ステーキ店「ジャッキーステーキハウス」の名に、勝田さんはぱっと顔を輝かせた。

「ジャッキーと我々は最初に、ニューコザ(八重島)で働いておったんですよ。それで、ジャッキーは嘉手納に移って、嘉手納で店をやったけど、将来は日本相手が良いだろうということで那覇に移ったの。弟のケンシロウは何と言うんだったかな、ターミーじゃなくて…。兄弟2人が那覇でステーキ屋を始めたの」

 「ジャッキーステーキハウス」や「ステーキハウス88」など、いずれも今や有名店。実はみんな、喜界島からやってきた親戚関係だったそうだ。
 ちなみに、ジャッキーや88は「1950年代創業の老舗」と言われるが、実はそれはステーキ店の創業年ではない。創業者が八重島でバーを開いた年である。沖縄の飲食店の慣例では、創業者が独立した年を系列店すべての創業年とする。そんなわけで、勝田さんの今のタコス専門店「チャーリー多幸寿(たこす)」も「1956年創業」だが、それは勝田さんが独立して自分の店をもった年なのである。

 

現在のチャーリー多幸寿の斜め向かいにあったニューヨークレストラン本店は残念ながら2008年に閉店してしまった。筆者撮影

 八重島の歓楽街としての全盛期は意外と短かった。きっかけは、オフリミッツ(Off Limits)だ。
 「オフリミッツ」も、コザの人たちが普通名詞として何の説明もなく口にする。それまで聞いたことがなかった言葉の意味を後から調べると、米軍が軍関係者に特定地域や店舗への立ち入りを禁ずる措置のことだった。
 結構なことじゃないか、と最初は思った。戦後まもないコザでの米兵による暴行事件はすさまじかったらしい。来なくなるなら安心ではないのか、と。
 そう単純でもなかったらしい。
 コザ市(現在の沖縄市の一部)は面積の70%を米軍施設が占め、経済の大部分を基地に依存していた。だから、米軍を相手に生計を立てる住民にとって、オフリミッツは商売禁止令に等しい。店や地域への客足が途絶えることは死活問題を意味した。コザ市の市長だった大山朝常は、オフリミッツが米軍の利用する「武器」だったと書く。

自分たちの意に反するものを、これで締め上げるのです。島ぐるみ闘争[1956年におきた軍用地接収をめぐる反対闘争:筆者注]のときも、その報復としてコザ市全域がオフリミッツ地域として指定されました。そのため、闘争が腰くだけになったほど、この措置はコザ市民の生殺与奪権を握っていたのです。(『大山朝常のあしあと』うるま通信社)

 むろん、米軍側からすればオフリミッツは軍関係者を守るための措置だ。島ぐるみ闘争の時は、アメリカ人と沖縄人との衝突を避けるための治安上の対応だった。新聞記事から確認できる最も古いオフリミッツは1951年7月で、住民居住区で日本脳炎が蔓延していることが理由だった。
 オフリミッツの主な理由は、性病対策である。当時、沖縄駐留軍での性病罹患率は、世界中に展開する米軍のなかでも飛びぬけた高さだった。米軍要員に対する売春は、1949年6月28日施行の軍政府布令1号が禁じているにもかかわらず後を絶たない。取り締まる手立てとしてオフリミッツが頻発された。
 とはいえ、効果があったとは言えない。1954年に永久オフリミッツが広範囲に発された時、「コザ一番の大金持ち」と噂された悪質な風俗業者は早々に転居して、新しく商売を始めた。女性たちのなかには街娼になったり他の街に流れたりする者も多く、米軍関係者の罹患率はたいして下がらなかったようだ。
 オフリミッツは期間もまちまち。長ければ年単位になる。当時の風俗店は女性を住み込みで雇うのが普通だったので、バーやキャバレーやダンスホールは次々と店を閉めた。土産物屋や飲食店に商売を替える人、他の街へと流れる人、さまざまだった。
 センター区が代わって栄えだした。1951年9月にできた、八重島から徒歩10分ほど南の地区である。目抜き通りのBCストリートを中心に急速に賑わい、八重島の人たちも次々と移転していった。
 人の流れは、北部にも向かった。勝田さんの周囲でもその流れは顕著だった。

 結局、米軍の移動ですね。中部にいた部隊が辺野古とか金武に移り始めたんです。59年頃から。最初は辺野古に部隊ができ、その翌年に金武にも米軍の街ができたんですよ。そしたら結局、八重島とかそういう街は、米軍の後を追いかけて移動するんです。金武に行ったり辺野古に行ったり。それで私のおった八重島がだんだん寂れてきたわけです。

 1950年代後半、沖縄本島の北部に次々と海兵隊基地が整備された。1956年11月、辺野古がキャンプ・シュワブとして使用開始(普天間基地の代替施設候補として一躍、全国的に有名になったが、実はなかなか歴史が古い)。1957年には、沖縄戦のさなかに占領された金武の飛行場が、キャンプ・ハンセンとなった。国場(こくば)組の大規模な工事で、1962年までに5000人を収容できる施設が整う。
 辺野古にも金武にも、みるみるうちに大規模な特飲街が形成された。一獲千金を夢見る人たちも、頻繁にオフリミッツを打たれるコザに見切りを付けた人たちも、北部へ向かった。
 例えば、「元祖タコライスの店」キングタコスの創業者・儀保松三さんの経歴が、まさにこの通りだった。儀保さんの孫でチェーン全体を継いだ島袋小百合社長から聞いた話が面白かった。

 じいちゃんは、結核にかかったせいで体力がなかったんです。コザが栄えていると聞いて、バーなら体力はいらないと思ってコザ十字路に行った。でも、バーを始めて2年でオフリミッツ。店を移転したけど、またオフリミッツにあって、いったん地元に帰りました。
 そしたら、コザ時代の知人から辺野古が栄えていると聞いて、1961年に家族を連れて辺野古に引っ越して、24時間営業のトリス・バーを始めました。…トリス、分かります? サントリーの安いウイスキーの。当時の法律で、普通のバーは夜12時で閉めなきゃいけないけど、トリス・バーなら店を開けていてもよかったんです。それで飲み足りない兵隊さんなんかが12時を過ぎたらどんどん来て繁盛して。
 おかげで、レストランやビリヤード場やアパート経営もやっていましたが、先に金武に移った友達から「これからは金武の時代だ。早く来い」と言われて、少し遅れて金武に出ました。1964年です。平地にはもう空き地がなくて、鍾乳洞の崖の土地を買って、洞窟のままバーにしたんです。

 当時、よりよい街での成功を求めて同じようにコザから辺野古や金武へと動いた人が大勢いたようだ。儀保松三さんの移転は、結果的に大成功だった。が、沖縄ロックの伝説的ミュージシャン、喜屋武(きゃん)幸雄の実家などは、コザから金武へ移転しようとして騙されて全財産を失ったそうだ(『ロックとコザ』沖縄市史資料集4、那覇出版社)。

 

キャンプ・ハンセン第1ゲート前の特飲街「金武町社交街」。今も多くのクラブやバーの建物が残るが、おおむね住宅街になっている。筆者撮影
儀保松三さんの自宅を兼ねたバーだった建物は、今も「ぼんさいカフェ ゴールドホール」として崖にそびえ立つ。自由の女神までいる迷宮のような建物だ。筆者撮影

 さて、そんな逆風の八重島で、勝田さんはどうしていたのか。「私のおった八重島がだんだん寂れてきた」といささか他人事のように語り、あまり苦労した話はなさらない。
 「影響はなかったんですか」と尋ねると、勝田さんの隣で娘さんが「さぁ?」と首を傾げた。「まだ八重島にいた時、1ヶ月くらい家族で東京旅行をしたこともありましたよ。1966年頃だったかな」。バーやダンスホールと違い、レストランは昼にも来客があってマイナス影響は少なくてすんだようだ。
 逆に、自分の店を持てたのがオフリミッツの「影響」だった。同じ喜界島から来ていた人が、BCストリートへ引っ越すからと店を譲ってくれたのである。
 内装をそのまま引き継いでバーにしようとして思い直した。生まれたばかりの娘にとって少しでも良い環境でありたい。1956年3月、勝田さんは念願の自分のレストランを持った。「スーパーレストラン」という店名に若い志が表れているように思える。

うちは家内と2人が一所懸命できる方だからね。後は従業員が少しだけいればいい。1人2人お願いしたり、田舎から呼んで応援さしたりしたんですよ。

 開店当時を語る勝田さんは楽しそうだった。働き者の奥さんと郷里から呼び寄せた人たちだけの商いだから、奄美の復帰やオフリミッツなどの波も乗り越えてこられたのか。
 勝田家がことのほか大切にしている写真を見せてもらった。レストラン開店から3年後、勝田さんのお母さんが初めて喜界島から沖縄に来た時、店に写真屋さんを呼んで撮った一枚だそうだ。母に自分のレストランと家族を見せることができた誇らしい思い出が写っている。

家族と従業員一同での記念撮影。右から5人目が母上で、左端が勝田さん。1959年4月16日の日付がある。勝田家より提供

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

宮武実知子

みやたけみちこ 主婦・文筆業。1972年京都市生まれ。京都大学大学院博士課程単位取得退学(社会学)。日本学術振興会特別研究員(国際日本文化研究センター)などを経て、2008年沖縄移住。訳書にG・L・モッセ『英霊』などがある。「考える人」2015年夏号「ごはんが大事」特集に、本連載のベースとなった「戦後日本の縮図 タコライス」を寄稿。

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